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おもしろいと思ったものを

『カレイドスター』 佐藤順一監督  最強とは? その場所は孤独なのか?

カレイドスター~10年目のすごいBlu-ray BOX~豪華版

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紹介されて観た作品part2です。ありがとうございます、2003年のオリジナルアニメ、『おじゃ魔女ドレミ』『セーラームーン』のなどを作られているかたなんですね、それらの作品をちゃんと観たことがないのでこれがちゃんと観る監督の作品になるので、いったいどういった物語を描くのだろう?とわくわくしながらみてました。観終わったいま、この作品がこんな感動する場所に連れてきてくれるとは思いもしませんでした。

 

 

カレイドスター』は26話までが前編であり、後編では新たなる翼編の2編で構成されています。前編では『苗木野そら』の成長とトップスターである『レイラ・ハミルトン』との絆の物語が描かれています。実はこの物語を観ていてうーんって引っかかっていた部分があって、なにか新しく成長しようとしたとき基本的に努力と根性で解決しようとするんですね、これはいまの時代ではなかなか受け入れにくいのではないかな?と思います。現代の物語は『帯をギュとね!』『ベイビーステップ』『アオアシ』などなど様々な物語がありますが、これらの物語は『特訓』だけをすることを否定していますす、怪我をしないような練習方法とか、考えて練習するとか、効率的な練習方法を取り入れるなど、努力と根性で乗り切るといった『巨人の星』などの時代にあった非効率的なやりかたが否定されています。これは現実のスポーツがそもそもそうしないと勝てないからです。

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カレイドスター』では一世代前の、『努力さえすれば、努力は人を裏切らない』という風に言っていると感じてうーん・・・ってなりました。実際に前編のラストでレイラは幻の大技と言われる困難な技の習得に挑戦し、その途中で怪我を負ってしまうがそのことを隠し続け、本番での演技を最後に怪我が原因で舞台を引退しなければいけなくなります。レイラさんが年齢的に先が無いのであればここでリタイアしてもそれは有終の美、最後に燃え尽きたのだなと納得が出きるのですが、まだ彼女は18~19歳くらいの前途ある若者です。その若者の夢を絶つような物語を自分は肯定できませんでした。ですが、これが後編である『新たなる翼』編の最終回である51話を観たときに、この努力と根性の物語がすべてこのラストに繋がる伏線だったのだと気がついたとき、ものすごい衝撃を受けました。この作品の真のテーマは『最強とは?』だったのだと自分は感じたんです。

 

『最強とは?』
このことは『刀使ノ巫女』の主人公である『衞藤かなみ』は剣術バトルが好きな子で、だけどラスボスを倒したとき、彼女と同等の実力を持つ人間が居なくなった。つまり自分よりも強い相手が居なくなり、最強の存在になりました。果たしてかなみは自分よりも弱い相手との剣術バトルを楽しめるのか?という疑問が浮かんだんです。

kenkounauma.hatenablog.com


この記事で最強の孤独を解決するのは、『自分に本気で向き合ってくれる人間がいることだ!』という答えを自分は出したんですが、でもそれだと孤独を解決することにはなるけど、自分の本気を出せる相手がいないという問題が解決されていないんですよね。それが、『カレイドスター』を観て、そうかそういうことか!と新しい発見がありました。

 

なえぎのそらは『新たなる翼編』に入ると、いままで目標であったレイラが居なくなり、自分の進むべき道を見失います。道を見失いながらも実力のあるレオンについていこうと必死になって特訓を行いながら自らの実力を高めていきます。そんな折り、レイラさんが出場し優勝した大会に出場することになったそらでしたが、彼女はこの大会で重要なことに気がつきますね、勝つために演技をするのは私のやりたいことではないということに。そして、自分が目指すべき道は幼い頃に経験した笑顔になれるステージを作ること、誰も争わないステージを作ることが新たな目標となります。そのために『天使の技』という技が必要であると知り、特訓をし、身に付けます。そしてステージで『天使の技』を披露することで観た人の心を揺さぶり、誰も争わないステージを作ることに成功しました。

 

そらが天使の技を披露する前に憧れの存在であったレイラから、どちらがステージに立つことが相応しいかを競おうと提案されます。
ここでそらはその勝負を受けるんですよね、争いがいやで争いのないステージを作ることを決意したのに。でもこの勝負は本質的には勝負ではなかったから受けたんだと思います。

 


この『天使の技』というものが憧れであったレイラでも完成させることのできなかった技であり、そらにしか習得出来なかったことからそらがレイラよりも実力のある、しいて言えば最強の存在になったんだと思うんです。先に書いた『最強の孤独』という問いを自分はここで思いました。『自分に本気で向き合ってくれる人間』はそらの仲間達がそこに当てはまると思う。では『自分の本気を出せる相手がいない』という問題は?というと、

 

そんな問題はなかったんだ!!

 

ということに気がついたんです。ラストでそらは一人誰も追い付けないような輝かしい演技をし、人々を魅了しています。であれば彼女は誰も同じレベルの相手が居なくて孤独を感じていてもおかしくないと思うんですが、そうじゃないんですよね。そらはキラキラしてて、もの凄く楽しそうに演技をしています。そう、楽しそうに演技をしているんですよ!!

 

なぜ楽しそうなのか?というとそらにとってステージでお客の反応をみて技を披露することが最上の喜びなんですよ、誰よりも優れてる私を観て欲しいとかそういう勝負をしているのではなく、純粋にステージでお客に楽しくなって貰えることが楽しいんです。そらが最強だったとしても最強じゃなかったとしても、やることは同じなんだと思うんですよ、それは

 

『お客に楽しんでもらうこと』です。

 

『自分の本気を出せる相手』というのは自分自身なんです。そうすることでそらはお客を楽しませることのできるステージを作ることができる。最強であってもそらがやることは変わらないんです。

 

なんというか『HUNTER×HUNTER』のネテロ会長を思い出したんですが、会長は感謝の正拳突きを1日1万回行い、気がついたら最強の武術家になっていた。というエピソードがあるんですが、会長は別に最強になりたくて正拳突きをしていたのではなく、当然のように正拳突きをしていたら最強になってたんです。この『なってた』というのが重要だと思うんです。

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話を『カレイドスター』のそらに戻して、そらも最強になりたくて天使の技を習得したのではなく、楽しませる方法はなにか?を考えた結果そこに行き着いたわけです。だから会長にとっての正拳突きが、そらにとってはお客をたのしませること。当然にやることなんですね。

 

そらは当然にやることをやっていたら最強になってた。しかもそれが自分のやりたいことをやっていた結果そこにいた。最近読んだ『アオアシ』でプロのその先を目指している栗林という選手がいるんですが、彼が目指すのはその時代の顔の選手になりたいということ、サッカーと言えば自分の名前が上がるような選手になりたいということでした。うまく言えないのですが、最強になる人間というのは最強を目指した訳ではなくて、目指しているものの過程で最強になってただけなんだと思うんですよね。うまく説明できないな・・・。

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そらが本気でステージをやっていればその姿をみて憧れた子供がそらやレイラと同じようにそらのあとを追いかけてきてくれると思うんです、そしていつかレイラがそらの壁になったように、そらも誰かの壁になる日がくる。でもそのとき、それは勝負ではなくてお互いに本気でやることこそが重要で、そのあとの結果は重要ではないんです。だって、そらは人を楽しませるステージを作ることがあたりまえのことなんだから。

 


『努力と根性の先にたどり着いた場所は?』
ラストでそらがとても楽しそうに演技していて、それをみた観客達も心が震える。という風に自分は感じたわけですが、ここにたどり着くまでに、怪我をするかもしれない特訓という演出が必要だったのだと思います。努力と根性の先に物語の主人公が得ようとするものって部活ものだと全国大会で優勝するとか、1番になるとかそういった、人が決めた物指しのなかでの喜びを得るためであると思うのですが、そらはそうではないと思います。そらが努力と根性の末にたどり着いた場所は誰にも負けない演技だとか、周りから恐れられる実力だとかそういった実力者ゆえの孤独という場所ではなくて、楽しくてやっていたらいつのまにかたどり着いてたんです。このいつのまにかたどり着いてたというのがとても重要なんだと思うんですよね。いまの時代のリア充というと自分は『ゆるキャン△』の志摩リンだと思っているんですが、彼女はソロキャンさえやっていれば人生が充実しているんですよね、野クルに勧誘されても彼女が部に入らないのは技術が違うからなんだと思うのですが、つまり志摩リンは楽しいことをしていたらいつの間にか他とはレベルが違う場所にたどり着いてたんですね。別に誰よりもうまくなろうと思っていた訳じゃないんだと思うんです。

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そらがたどり着いた場所も楽しくてやっていたらいつのまにか天使の技を習得できるレベルにいただけなんだと思うんです。努力や根性という過程があったけれども、最終的にたどり着いたところは、楽しいからやっている というだけなんですよ。

 

ラストのシーンを観ていたらそう感じて、この物語が努力と根性で終わらずにその先、楽しいからやるというところい辿り着いていてとても感動しました。そうか、最強の存在は孤独なんてそもそも感じていなかったんだ。だってそれをやっていれば楽しいんだから、その場所は充実している場所なんだと気がついて、そうか、最強は孤独じゃないんだと自分のなかにあったテーマが解決しました。

 

 

うーーーん!!自分でも全然うまく説明出来てない気がするから伝わってるかわからないんですけど、まぁとりあえずこれが感想ということで。紹介して頂き本当にありがとうございました!!

『天気の子』  愛にできることはまだあるんだ。だから僕たちは、大丈夫だ!

小説 天気の子 (角川文庫)

 

tenkinoko.com

この感想は個人の感想であって、これが正解だよ!って言いたい訳ではないです!

ネタバレもありますので注意を。

 


素晴らしかった、あまりにも素晴らしい。映画館で泣きそうになることはいままで結構あったけれども、まだ我慢することができてました。ですが、この映画を観てるときはもう我慢できずに泣いてしまった。なので、今回の記事はなぜ泣けたのか?を書いてみたいと思います。

 


まず新海監督のことを自分は『会えない苦しみ』を描いてる人であると思っています。『ほしのこえ』ではヒロインが男の子から物理的に離されて会えない話を、『雲の向こう約束の場所』ではヒロインが所在不明になり男の子が会えない話を、『猫と彼女』では猫と人間という越えられない壁があり会っているけど通じない話を、『秒速五センチメートル』ではヒロインと男の子が親の都合で離れて会えない話を、『星を追う子供』ではヒロインは生きてて男の子が死んでいてもう二度と会えない話を、『君の名は』ではヒロインがすでに死んでいて会えないという話を。

 

そして今作『天気の子』では一体どういった会えない苦しみを描くのだろう?とワクワクしながら観てました。それと新海誠さんの作品の共通点として幸せな日常を過ごしているほどその後の不幸が待っているとも思っているので、帆高くんと陽奈さんが幸せであれば幸せであるほどこのあとどんなしっぺ返しが待っているんや~とドキドキもしながら見ていました(笑) 

 

でも、天気の子は『会えない苦しみ』が主眼ではないんだなと見終わったいまだとそう感じます。なぜならもうそこはすでに過去の問いかけでありその先を描いているからです。

 

その先とは『会えないって言ってない会いにいけよ!』ってことです。劇中のラストで須賀さんが帆高くんに

 

「お前もしょうもないことグズグズ考えてねえで、早くあの子に会いに行けよ。あの日以来会ってないって、今までいったいなにしてたんだよ?」

 

 

というんですよね。上で自分は新海さんは『会えない苦しみ』を描いている。と書きました、だからこの須賀さんの台詞を聞いて

 

それを新海さんが言うのかよ!?

 

と吃驚したんですよ。いままでずーーっと会えない男女を描いてたのに、帆高君は陽奈さんに会いに行くじゃないですか! 自分はここでもう感動の感情が溢れて涙が我慢できずに止まりませんでした。いままでの作品では会えない終わりかたを描いていたのに、『君の名は』でとうとう最後に二人は会えたという終わりかたをしていました。この時点ではこれが新海さんの気の迷いだったとも、エンタメに寄ったともまだこの時点では言えたと思うんです。でもですね、今作でも会えた。もう二作も続いて会えるという作品を描いたのだとすれば、新海監督は意識してこれを描いているんだと思います。ということはですね、

 

会えないとか言ってないで、会いに行くんだよ!

 

と言うことを肯定的に捉えているんだと思うんです、ついに、ついに新海誠監督はさきに進んだんだ!!(なに言っているんだ)
2000年代のギャルゲーのようだとか、監督が戻ってきたということではなくて、むしろ監督はさきに進んでいると自分は感じました。

全く関係なかもしれないけれど、宮崎駿監督が『風立ちぬ』で少年の物語を堂々と描いたことで庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』を、新海誠監督が『天気の子』を描けたのかもしれないと思うと、なんというか繋がりを感じて感動するなぁ。

 

風立ちぬ [DVD]

シン・ゴジラ

 

いままでの映画が、自意識の檻に捕らわれている人間を描いていたのは、それがこの世界の美しさでもあり、残酷さでもあるところに魅力を感じていたのだと思います。だから美しくも残酷である世界を、それを人間の心理描写として大切な人に『会えない』物語を描いていた。

 

この心理が変わったのが『君の名は』の前に日本を襲った大災害である3.11だったのではないかな?と思います。会えないって言ってて本当に会わないでいると突然居なくなることが現実にはあるんだよということを強烈に感じたのではないか?と思います。

 

君の名は。

 

この災害後に描かれる特徴的な映画庵野監督の『シン・ゴジラ』と新海監督の『君の名は』。『シン・ゴジラ』ではこの未曾有の災害に日本人である政治家たちやその下部組織である自衛隊や消防隊員や普通の会社員などが自らの役割を果たすために必死に仕事をし、災害への対処の理想図を描き。『君の名は』でも災害が起きることに対し、みんなで協力しあいながら災害への対処の仕方を描きました。ですが『天気の子』のパンフレットにある新海監督のパンフレットに書かれていたのですが『災害をなかったことにする許しがたい物語』と、評されたことがあったそうです、さきに書いたように『シン・ゴジラ』も『君の名は』も災害が起きたときの理想的な対処の方法を描いた映画であり、むしろちゃんと災害が起きたときのことを直視していると自分は思います。

 

新海監督は今回の『天気の子』で『賛否両論がある作品を作った』と言っています、それは今回のラストで世界を救わないという選択をしたことを言っているのだと思うのですが、『天気の子』ではヒロインを助けます、それは東京に降り続ける雨を止めないことを選択したということ、その結果東京の一部が水没します。ここで東京を救わないという選択をしたことが『賛否両論のある作品』であり、この展開にしたことが『災害をなかったことにする』という言葉に対する回答なのだと思いました。

 

今回は世界を救わないという選択をした。とさきに書きましたが、そもそも世界の命運を一人の子供に託すということがおかしいのではないか?と自分は思います。僕らは『シン・ゴジラ』で観たはずです、世界の危機を救うのは解決するためのシステム、組織に組み込まれている人達が自分の責任を果たして、逃げずに立ち向かうことで解決しようとするところを。

 

であれば偶然選ばれた人=英雄、勇者に世界を救ってくれることを託すのではなく、世界を救いたいのであれば、自ら立ち上がって行動しなければいけないんだということを。だから『災害をなかったことにする』と言っている人達は『シン・ゴジラ』で言えば、国会議事堂の前で大声でなにも解決するための行動をせず大声でただ叫んでいる人たちと同じで、新海誠監督は解決しようと行動している官僚側の立場なんだと自分は思います。

 

つまり『災害をなかったことにする許しがたい物語』=声をあげるだけで行動していない人に対して、新海誠監督はやっている!物語をつくって人々に生きるにたる糧を届けているんですよ!だからこそのラストで御子の力を失っても人の幸せのために祈っているであろう陽奈を見て、帆高君ははっきりと宣言するんですよ。

 

「僕たちは、大丈夫だ」

 

 

陽奈ちゃんは祈っているんですよね、たぶん人のために祈っているんだと思うんです。なんで人のために祈れるのかっていうと、世界を愛しているからだと思うんですよね。新海誠監督の描く風景の描写ってものすごく綺麗で、この綺麗な景色のある世界に生まれきてよかった。と思えるくらいの景色だとも思うんですけど、でもそのなかで生きてる人たちは色々な葛藤を抱えていて、綺麗なことばかりじゃなくて、苦しいこともある。というように感じます。だから陽奈ちゃんもこの綺麗な景色のある世界に生まれてきてよかったと、綺麗なことばかりじゃなくて、苦しいこともある世界だけど、でも生まれてきてよかった、そんな世界に生きる人々が幸せに、笑顔になってくれるように祈っているんじゃないかな?と思うんです。

 

この祈りは陽奈の祈りでもあるけど、新海誠監督の祈りでもあると思うのです。自分は監督描く世界をみて、この世界に生まれてきてよかったと、こんなに素晴らしい映画を見せてくれる世界に生まれてきてよかったと思えます。幸せに、笑顔になれるんです。エンターテイメントにはそれだけの力があります。

 

これが、『災害をなかったことにしている』という言葉への回答。新海監督はそれでも人々の幸せや笑顔を祈っているんだと思いました。ではなぜ、世界を救わなかったのか?というと、それが僕らのやった結果なんだからだと思います。例えばこの物語が『シン・ゴジラ』であったならば、官僚がこの未曾有の大災害に対してなにか対策を講じる物語になるはずです。でも、『天気の子』ではそうなりません、3年間放置して、東京は水没してしまいます。やった対策と言えば住民の転居の手助けをしたくらいの描写しかされていません。後手に回った対策です。そして、誰もがその世界で普通に暮らしています。須賀さんの台詞

 

「世界なんてさ──どうせもともと狂ってんだから」 

 

 

狂っている世界だから今さらどう狂っても違いはないよね。ってことなんだと思います。だから3年間雨が降り続けるという状況に対してもなにもしない、また狂っているだけなんだから。という風に傍観して、たぶんここでも政府に対してはやく対処をしろと言っている人がいるんだと思うんです。言うだけでなにもしない人が。

 

つまり、世界を救わなかったのは帆高君でも、陽奈でもないんですよ。僕たち全員なんです。

 

だって世界の危機に対して傍観してなにもしなかったのはそこに生きる人たちも同様だったんだから。

 

だからこそ、なにかをした帆高君は「僕たちは、大丈夫だ」と宣言します。この愛する世界で生きる人たちのために祈れる、なにかをしてあげられる僕らは大丈夫だと。

 

帆高君は世界の形を決定的に変えてしまったことを自覚しています。でも、それは帆高君が特別な人間だったから世界を変えられた訳ではないんですよね、帆高君は一般的な中流層の人間だし、陽奈も同じく一般です。なにも特別なものは持っていません。でも帆高君と陽奈は世界の形を変えられたんです。なにも特別な人間ではなくても。そういう意味でも、帆高君は世界を変えられるということを知っているからこそ「僕たちは、大丈夫だ」というんだと思うんです。

 


小説版『天気の子』のあとがきに書かれているのですが

今作の発想のきっかけは、前作の映画『君の名は。』が僕たち制作者の想定を遥かに超えてヒットしてしまったことにあったと思う。……いやしかし「想定を超えてヒットしてしまった」なんて、なんとイヤラシイ書き方であろうか。でもそれは僕にとっては本当に桁違いだったのだ。『君の名は。』が公開されていた半年超の期間、あれだけ多くの視線、あれだけ多様な意見に晒されたのは、僕には初めての経験だった。家で食事をしているとテレビでいわゆる有名人が映画に意見していたり(なんだかディスられていた)、居酒屋で飲んでいても感想が聞こえてきたり(わりとディスられていた)、はたまた道を歩いている時でさえも映画の名前が聞こえてきたりした(やっぱりディスられていた)。SNSには膨大なコメントが溢れていて、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に怒ってらっしゃる方もずいぶん目撃した。僕としては、その人たちを怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ。 そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。それこそが僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られるのだとしたら、それはもう仕方がないじゃないか。僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。いささか遅すぎる決心だったのかもしれないけれど、『天気の子』はそういう気分のもとで書いた物語だった。

 

 

まさに今回の作品は教科書のような物語ではない、眉をひそめられしまうような密かな願いを描ききったのではないかと思います。


それにしても、今回の少年像は面白いなぁと思います。陽奈がお店に引き込まれるところで帆高が陽奈を助けだしたあと、廃墟で助け出した陽奈から言われるのは「気持ち悪い」なんですよね。これって例えば、勇者が剣(=銃)を拾って囚われの姫を助け出したら拒絶された。ということなんだと思うんですけど、ここで否定されるのって、それが暴力だからではないかなと思います。帆高君が家から飛び出してきた理由は謎ですが、勝手に妄想すると、島に居たくなくて東京に出たいと言ったら、バカなこと言ってるんじゃない!とか言われて、父親に殴られたんだと妄想するんですけど、それが嫌で飛び出してきたのに、自分がやったとこも銃=暴力で人を押さえつけることだった。そんな英雄きどり?だからヒロインに気持ち悪いって言われてしまったんだと思う。

 

二度目に銃を発砲するシーンは意思表示、天に発砲するのは怒りの表現。剣は手段であって、目的ではない。示威行為、武力による圧倒。武力は使わないことが重要。剣は自らの意思で捨てる、もう暴力で人を従いさせないという意思表示。いや、全然わからん・・・、ここはもっと考えないとな・・・。

 

今回社会的な規範を破ることが描写されていますが、これはいままでの作品を見ていると社会の大きなうねりによって引き裂かれる二人を描いてきたからなのかな?と思います。大きなうねりに抗うために規範を破って女の子を助けだす・・・のかなぁ?これは『きっと、うまくいく』を思い出しますね。

きっと、うまくいく [Blu-ray]


しかし、こうなると次はいったいどんなテーマを描くのかが全然予想つかなくて、次があるなら楽しみだなー!

 

『おたえの日常短編集(千聖割増)』 糸洲著 日常を楽しく生きたいなら表現して伝えろ!!

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今回の糸洲さんの本は、本のタイトルにある通りに『花園たえの日常』を描いています。おたえが日常を幸せそうに過ごしている物語です。でも、これが日常の物語を描いた『けいおん』とか『ゆゆ式』とかの普通の女の子が主人公の物語ではないんですよ。

 

糸洲さんの本は『花園ランド』から知ったのということを前の記事で書きましたが

kenkounauma.hatenablog.com

 

いままでの糸洲さんの作品が『私は普通じゃないかもしれないけど、でも生きたい!』という叫びを描いていたのだと自分は感じました。そして、その流れがあって今回の作品で『This Communication』の記事で書いたんですが

kenkounauma.hatenablog.com

会話がすれ違っていても楽しい!というような、自分が自分のまま変わらずに人生を楽しむ物語です。たとえば、『私がモテないのはお前らが悪い!』や『僕の心のヤバイやつ』のような作品ですかね。 

 

そして今回の本を読んで感じたのは、『私は私のままで生きる』ということを肯定的に描くことで、花園たえという思考の突飛な人間がそのまま、相手の機嫌や顔色を伺うことをせずに、喋ったり、行動したりしてもいいんだ!!とこちらの作品で言っているんだということです。

 

というような、上記で書いたことをここから頑張って説明して行きたいですが、意味不明ことを書くと思います・・・。えっとですね、たぶんこの本を読んでる方は花園たえがどういった子なのか?というのはわかっていると思うのですが、たぶん身の回りにいたらこの本に描かれている千聖のような反応をするか『This Communication』で描かれている「良子」のように反応の困る発言に対して怒ったりするのが普通だと思うんですよね。

 

でも、糸洲さんの描く花園たえはその可能性があることを全然怖がっていないように見えます。自分が思ったことを正直に話しているんですよね。そしてそのことを少なくともポピパは受け入れていますよね。有咲と千聖は対象的に描かれていると感じます。

 

有咲は『花園ランド』でおたえの内面世界をおたえと一緒に冒険して、その結果、糸洲さんのあとがきに書かれていますがおたえってなに考えてるかわからない。でも、夢やあこがれを持っていたり、悩んだり、不安になったりするんだということを有咲は知り、おたえも自分と変わらない部分があることに気がつくんです。自分と変わらない、おたえは特別な人間じゃなくて、特別に見えるだけなんです。そうすることで有咲はおたえを同じなんだと受け入れることで対等な関係になります。自分はこの対等な関係こそが『本当の友達』なんだと思います。だから、『花園ランド』で有咲とおたえは親友なります。

 

千聖はこの体験をしていません。だからおたえがどんな人間なのかを知りません。 そして、おたえの不思議な発言に対して困惑している描写がよくされています。でもたぶん、有咲も最初はおたえの不思議な発言に対してはそういう反応をしていたのではないかなぁ?。けど、有咲はおたえと一緒にいるときの楽しみかたをわかっている、それは、なんかよくわからないけど難しいことを考えずに一緒に楽しめばいいってことなんだと思うんです。

 

それはこちらの本では収録されていないんですが糸洲さんのTwitterにあげられている千聖とおたえが京都で出会うっていう「白鷺千聖の京都旅行 後編」で訳はわからないけど、おたえにツーショット写真を沢山撮られるんですね、でもだんたんだんと楽しくなってくるんですよ。なんかよくわからないけど、楽しいんです。

 

つまりですね、楽しんでる人がいたらその人とと一緒に楽しめばいいんです。それだけでいいんです、だってそれで楽しいんだから。っていう風に感じます。


前半は、おたえを主人公にしつつ、千聖と有咲の『おたえとどう付き合っているか』という比較を描かれていました。そして後半で、おたえが主人公になったとたんに展開されるオーナーとの物語。前半までは、うんうん変わらないまま楽しく生きるのがいいよね。と今回の本のテーマを描ききっているなーと思っていたのですが、まさかの爆弾が投入されていました。その爆弾とはオーナーとおたえがセッションすることになりオーナーがおたえに「音楽とはなにか?」を問うシーンの台詞です。以下に引用します。

「音楽とは何か、ポッピンパーティとはどんなバンドなのか、少しはわかったかい?
 
 音楽は表現だ 何かを誰かに伝えるんだ つまるところ自分探しだ 何が好きで何に怒るのか
 
 それらを知るために たくさん練習して たくさん遊んで とにかくいろんなことをしろ!

 自分が何を伝えたいのか 自分が何を考えているのか 考えろ!

 それが表現者として 生きるってことだと思う」

 花園ランドで特別に見える人間が実は自分と変わらないと描いて、次の『this』ではコミュニケーションのうまくいかなさを描いて、そしてこの作品では千聖とのコミュニケーションのうまくいかなさを描いているが、でもおたえは自分の言葉が通じているかどうかなんて気にしないで楽しそうに喋っています。有咲との会話をみればわかる通り、自分を変えずに楽しそうなら一緒に楽しめばいいだというように描いて、言葉が通じなくたって楽しいならそれでいいじゃないか!と言っているんだと思うんですよ。それはセッションしているときにおたえがオーナーはやっぱり凄いと驚くシーンがあるのですが

(少しでもオーナーに見合った演奏をしないと!)

「花園これはセッションだ 音の中に自分を混ぜろ!! 「自分はこういう人間だ」って伝えるんだ!」 

これ、何を言っているのかと言うと、他人に自分を合わせるな、自分を変えるな、自分は自分だ!ってことなんだと思うんです。そして、なんで自分を変えるなと言うのかというと、もしオーナーに合わせて演奏したら、そのときおたえは楽しかったでしょうか?このときのおたえの顔は冷や汗をかいて、必死な顔をしています。自分を変えて、人に合わせるって、自分を下げているから苦しいんですよ。必死な顔をしてしまう。でも、オーナーに自分はこういう人間だ!って伝えるんだ!と言われたあとのおたえは笑顔で演奏しています。相手に合わせないで自分でいいって言われたからです。だから楽しく演奏しているんですね。

 

でも、これってなんで楽しくなるのか?と言うとオーナーの言葉にあるように『表現』することが大切なんです。なにかアクションを起こす必要があるんですね。これは『タビと道づれ』でユキタ君が言う

 

『お前はなんのために口がついている? わからなくても、言葉にしろよ』

 

この言葉を思いだします。主人公である『タビ』はうまく言葉に出来ない子で、言葉にとしてでることがおたえのように結論からでてくるのでその過程を共有していない人には意味がわからないんですね、タビはそれを気にしてだんだん相手に言葉で伝えることをに臆病になっていきます。そうすると相手はますますタビがなにを考えているのかがわからなくなってという悪循環のループになってしまうんですが。
これも相手に言葉が伝わらない子の物語を描いているのですが、うまく伝えられないからと言ってなにもアクションを起こさないとなにも伝わらないんですよね。

 

ちなみに、『タビと道づれ』超傑作です。自分と同じ世代90から00年代の人ならめっちゃ共感できると思います。読んでないと人生損レベルの作品なので是非読んでください。

kenkounauma.hatenablog.com

 

話を戻して、オーナーが『自分が何を伝えたいのか 自分が何を考えているのか 考えろ!』というのは強い表現ですね、『花園ランド』のおたえが自分と変わらない女の子であることを描き、『This Communication』で、でもやっぱりコミュニケーションがうまくいかないのは事実なんだ!と言い、そして『おたえの日常短編集』の前半で楽しそうに日常を過ごすおたえを描き、後半でオーナーとおたえの物語を描いたのは

 

コミュニケーションが苦手でも、日常を楽しく過ごしたいなら、自分が何を伝えたいのか 自分が何を考えているのか 考えて表現しろ!伝えろ!

 

って言っているんだと感じました。これってもし表現が出来ないのであれば、コミュニケーションが取れないことを嘆いてはいけないんだ、だって表現が出来ないと言って人と向き合うことから逃げていたらいつまでたっても伝わらないだけなんですよ。伝わらないと生きていても面白くないんですよ。

 

だから、自分の人生を楽しく生きるために、表現しろって言っているんですよ。

 

自分はこう感じたわけですが、糸洲さんめちゃくちゃスゲェ!ってなりました。前回の『This Communication』の記事で自分は糸洲さんは次に描くのは不思議な行動をとる人間が、そのことに悩まずに、あるがまま日常を楽しんでいいだというものを描いていると言っていましたが、その次を今回の新刊で描いているのが、なんというかスゴいとしか言いようがないです。たぶんこれって人生は楽しいんだと肯定出来ていないと描けないんだと思うんです。糸洲さんのコアって『This Communication』にあると思っているんですが、でも人生は楽しいんだ、いや、楽しくすることができるんだ!っていう宣言を今回の本でしているんだと感じました。

 

いやー、面白かったです。そして、ここの先ってなんだろう?って思います。たぶんなんですけど、この次って成長なんじゃないかな?って思います。伝えたい言葉を伝えるための努力をすること、そのためには成長しないといけない。でも成長するってことは困難に立ち向かうことで、その困難をどうすれば乗り越えられるのか?ってことかなぁって思います『宇宙よりも遠い場所』の小淵沢しらせと玉木マリの関係ですね。

 

『ガルパペコ花』オニヨメ著 花咲女子オンリーギャグ。い、勢いが凄い(笑)

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表紙の有咲かわいいですね!!


オニヨメさんの新刊毎回楽しみにしているんですが、今回ももの凄い勢いのある展開で、怒濤のギャグで息もつかせぬ感じであっという間に読み終えてしまいました。

色々お気に入りところがあって、杉下香澄さんとか「な、なんだってー!?」の顔、ちょっとまったー!!から入ってくる西北南白発中の名探偵達、容疑者写真で燐子だけ胸まで写ってるのとか、西の人だけあって口の悪いりみりんとか、小ネタ満載で、なんていうか、「く、くだらねぇ(笑)」ってなって読んでました。いや、面白いんですよ(笑)。

オニヨメさんのツイートでイベントの5日前にコピ本出します。って言われてるんですけど、5日でこのクオリティのギャグをかかれてるのって凄いです。でも5日間という短期間で描かれてるからこその勢いっていうのもあるんだと思いました。

タイトルにある『花』ってのがなんのことかな?とわからなかったんですけど、花咲の子達オンリーで描いてるからかって気がつきましたwだからあとがきに『羽』も出したいって書かれているんですね。楽しみにしています。

今回間に合わなかったらしい『モカ神vs闇RAS』も楽しみにしています。

『Lemuria.』えぬ著 そこにあなたが居るから私は私でいられる

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www.pixiv.net

BDP7thで入手したこちらの本なんすが、最初は表紙が綺麗でいいなと思って手にとって、中を見てモカと蘭の異世界物だ!!ってパラ読みしただけでわかる世界観が描かれていて、面白そうだ!と思って購入しました。

本の内容を紹介すると

ネタバレが含みますので、注意してください。

 

 


蘭は、目が覚めたらそこは夜で、見知らぬ中世の祭壇のような場所だった。他に誰もいないのかと不安になる蘭だったが近くにモカが居ることに安心した。モカは恐らくこの世界は異世界だろうと推測(根拠に、なぜか魔法が使えることをみせる)。蘭はモカと一緒にこの世界から脱出する方法を探していると、どうやらダンジョンをクリアすることで元の世界に帰れるらしい。元の世界に帰るために二人はダンジョンに挑む。


という、感じで上の方でに書いた【世界観が描かれている】というのは、祭壇と蘭とモカのローブ姿から感じたんだろうと思います。このイメージって祭壇は『灰と幻想のグリムガル』で目が覚めたら知らない場所で、周りにも自分と同じような年代の人たちがいて。というのを思い出すからだと思うし、ローブ姿は『ハリーポッター』とかの魔法を使う人っていう幻想の人たちを感じるからだと思う。この異世界観のイメージを最初に受けたあとに、ラストで蘭が現代の僕らが見慣れている風景、ビルとかの高層建築物がならぶ風景を見て

 

「ただいま」

 

っていう台詞に、あぁいつもの日常に帰ってきたんだなぁっていう『帰ってきた』という安心を感じました。これは『マブラヴ』でもなんでもいいんですが『非日常』を体験することで自分がいつも退屈だと思っていた『日常』が実はとても大切なものだったんだと知る。という奴です。

 

こちらの物語のなかで、蘭とモカが体験する異世界での非日常、そこで蘭はモカがどんな状況でもいつも通りのマイペースで居ることに安心感を得るという描写があるのですが、自分はそれをみて

 

なるほど!!!!!そうか!!蘭にとってモカは帰るべき原点なんだ!!!

 

っていうことに気がついたんです。なにを言っているのかというと、アフターグロウの第2章でモカは自分だけが成長していない、成長する情熱がないことに気がついて、蘭がもう助けてあげなくちゃいけない存在じゃなくて、自分よりも先を行っている存在なんだってことに気がついて、これからは蘭の後ろ姿を見守ろうという風に気持ちが変化しているんですよね。

 

ということは、モカは蘭よりも成長していないと見えていました、自分は。だから、公式のストーリーでモカをどうするんだろう?と思っていたのですが、こちらの本を読んで、そうかこういう方向もあるんだな。って驚きました。

 

モカが『蘭より成長していない自分』という問題を解決するためには、モカが成長する以外ないよね?って思っていたところに

 

すでにモカと蘭は対等だったんだということをこちらの本で提示されていたんです。なにを言っているのかというとこちらの本の台詞にある

 

蘭「あたし、モカを見ていると安心するよ いつも通りで、どんな世界でもモカは変わらないね」

 

モカにとっては変わっていない自分、成長していない自分と成長している蘭を比較して、成長する情熱のない自分に折り合いをつけて蘭の背中を見守ることを決めたのに

 

蘭にとっては、どんな状況でもいつも通りでいるモカを見ることで安心できる。つまり、変わらないモカを見ることで蘭は自分の原点を見つめ直すことができるんだと言っているんだと思うんです。夕焼け空を見るのと同じように。

 

だから、蘭にとってモカは変わっていないことが重要なんですよね。それって、変わってない自分に嘆いているモカにとっては救いなんじゃないの?と思うんです。だって、蘭にとってモカが変わっていないから、モカが変わらないでいてくれるから蘭は蘭でいられるんです。

 

ってこちらに本の読みながら思ってね?もう、えーーーん!!(号泣) 蘭ちゃんにそう言われることがモカにとって救いじゃんーー!!これを書いた えぬさんすげーよーー!!って感動しました。やっぱり物語を書く人は凄いですね、先に進むための答えを考えている。素晴らしいなぁ。

 


ここからは、本の内容に関係ないんですがあとがきを読んだあとに『貫く闇、青薔薇の誇り』を読んでみたら、ガルパでは蘭とモカがどうなったのか?が展開されていて、やべぇ!!ってなりました。ちなみに自分は、公式か非公式かってのは自分はどうでも良くて、面白ければそれが正義だと思うので、どっちが正解とかそういうのはどうでもいいです。

 

『貫く闇、青薔薇の誇り』はあこちゃんのカッコいいの原点を探すストーリーで、一見あこちゃんが主人公のようにみえるのに、実は一番このストーリーで成長したのはモカですよね。モカはあこがカッコいい憧れている好きな人の背中を追いかけて行きながら、真似をするのではく、カッコいいところを自分なりに解釈して、それを自分のなかに取り込んで、自分の思い描くカッコイイ自分になろうとしているあこちゃんの姿を見て気がつくんですよね。それは自分と蘭の関係に似ていることに。アフロ2章で蘭みたいにはなれないけど、カッコイイ蘭を見ていたいから後を追いかけるよとネガティブに捉えていたのが、あこちゃんを見て、

 

あぁ、そうか。カッコイイ背中を追いかけていても成長することができるんだ。

 

って気がつくんですよね。だからモカは蘭の背中を追いかけることにします。今度は『追い付けないけど追いかける』ためではなくて、『追いかけることで、成長して蘭の隣に立つ』ために。そう、モカは自分が成長できることに気がついたんだ。これって『1518』の第46話美春の冒険 を思い出すのですが、美春はいままで上手くやって、無駄なことには取り組まない人間だったけど、それだと今の自分から変われないことに気がついんだんだと思うんですよね。だからいままでの自分だったらやらないことに対したときはそれをやることにしています。それが、彼女にとっての成長するための冒険。美春もモカのように情熱のない人間で、だけど、楽しそうに冒険している人をみて自分もそうなりたいと思えているんです。つまりですね、情熱がないんだったら、情熱のある人間を見ればいいんだと思うんですよね、それは『ラブライブ!』のほのかちゃんでもそうだと思うし、『宇宙よりも遠い場所』のしらせでもそうだと思うのです。自分の実体験的にもこうやってブログを書いているのは、楽しそうに物語の物語を語っている人たちの情熱を知ったからですしね。

 

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モカちゃんは楽しそうに冒険しているあこちゃんを見て、自分も冒険してみようと一歩を踏み出しました。追いかけることはなんにもネガティブなことじゃないんです、人ってのは最初は真似から入るわけですから。モカはもう追いかけることをネガティブに捉えずに、肯定的にとらえます。それは『貫く闇、青薔薇の誇り』の後にある『フラワー・ジューン・ブライド』の蘭☆2のエピソードで、蘭が店に花を観に行くと言っていて、それにモカもついて行くと言っているけど、モカは嬉しそうについて行くって言ってるんですよ。だからモカはもう蘭のあとを追いかけることに対して肯定的に捉えているんだと思うんです。

 

いやぁ、すげぇなぁ!もうすでにモカの悩みは解決されていたんだなぁ!!!ガルパのこの関係性を日常のなかで積み上げていくのは本当に凄い。つまりこれって、僕らは永遠に物語を語ることが出来るんだって言っているんだと思うんだ。そして、これが出来るのは2人だけの関係性で終わらずに、多数の人間のとの関わりあいのなかで僕らは生きている、群像劇だからなんだ。永遠に日常をループしなくても、時が進むだけで関係性に広がりが出るんだ。そして、バンドリというコンテンツが『関係性』を描く物語であるとすれば、それは一生を描くことができるんだと思う。例えば部活ものだったら優勝すれば終わりだし、友達がほしい物語なら友達が出来たら終わりだし、竜退治の物語なら竜を退治すれば終わるけど、『関係性』の物語は時が進むだけで物語になるのであれば、一生終わらずに描くことができる。もはや歴史を描くレベルだよね。

 

とまぁ、熱が入りすぎて変なことを書きましたがこちらの御本『Lemuria.』が大変面白かったからだということで!

 

 

『タビと道づれ』たなかのか著 地上に輝く星々の物語

ゆy[まとめ買い] タビと道づれ

結構だらだらと長文を書いてしまったので、先に結論から言うと、

素晴らしい傑作だから読んで!2000年頃の日本の若者がいったいなにに悩んでいて、そしてそこから脱出するためにどうしたか?がよくわかる物語でした。

というようなことをここから下はネタバレありで長々と書いているだけです。

 

 


こんなに素晴らしい作品があったなんて!!! この作品が2006年に出ているのもすごく面白いですね、同時代で言うとマブラブオルタがあるのですが、このマブラヴエヴァへの答えを提示した作品、『逃げた先にまつのは現実で、その現実に対してどうすれば立ち向かうことができるのか?』という動機ない人間が、動機を獲得するまでの物語だったんだと思います。

 

タビと道づれ』もその『逃げた先に待つのは現実で、その現実に対してどうすれば立ち向かうことができるのか?』というのをテーマにしていると感じました。主人公であるタビ()は学校でのツラい日常から逃げてきて、5年前まで住んでいた街へ航ちゃんに会いに行いきます。しかしその街は、街から出れないし、同じ1日を繰り返すという現象が発生していました。

 

この、街から出れない、同じ1日を繰り返すというのは、主人公であるタビのような学生は日常の風景ですよね。学校というのは自分の決定では転校したり、退校することの出来ない、出ることの出来ない閉鎖空間で、そして卒業するまではほぼ変わらない毎日を過ごす場所です。そして、その空間が自分の居場所ではないという感じがするから、ここではないどこかに自分の居場所があると思って外の世界に救いを求めるんだと思います。

 

では、『どうすれば自分の居場所を見つけられるのか?』というテーマに対して、こちらの作品では自分のなかに居場所はあって、それに気づくためには色々な人に逃げずに会うことだと言っているんだと思います。

 

主人公であるタビは、幼少からイジメられていて、その原因として自分が他の人達と違って足が遅いからとか、言葉がうまく伝えられないからという風に考えています。そのツラさを癒してくれたのがプラネタリウムで働く航ちゃんでした。

 

でも、タビは転校してしまい、航ちゃんと会うことができなくなってしまいます。そして、高校でもまたイジメに合います。

 

このテーマって最近ですと『宇宙よりも遠い場所』の三宅日向を思い出します、彼女も学校でうまくいかなくて、自信を取り戻して再び現実に戻るためにはどうすればいいのか?というテーマがありました。日向の場合、元々その現実が間違っていたんだ!という答えにたどり着きましたね。

 

さて、ではタビはどうしたのかというと、彼女はユキタ君に出会うことで変わっていきます。いままで友達が居なかったタビにとってユキタ君は、友達とは一体どういう関係なのか、と他人との接し方を学ばせてくれる存在でした。タビは友達がいないのは自分のせいだと思い苦しんでいます、ですがユキタ君など、様々な人が彼女と本当の友達になります。なぜ、友達になれたのか?というと、ユキタ君に教えてもらった

 

『お前はなんのために口がついている? わからなくても、言葉にしろよ』

 

この言葉をかけてもらってからタビは説明はできないのだけど思ったことを言葉にすることを実行していきます。この些細な変化によってタビは様々な人とのコミュニケーションが可能となり、そしてタビがどういう子なのか?をその言葉から知ることができた人たちは彼女と関係性を育んでいきます。

これは『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』のもこっちを思いだすなー、彼女も自分の思っていることを素直に言っちゃうんですが(だいたいヒドイこと言ってる)、その恐れずに発言する彼女を見てもっともこっちを知りたいと思ってくれる人がポツポツ現れましたね。


1巻でタビが『わたしがわたしじゃなかったらよかったのに』というの台詞はものすごいグッとくるし、この感覚が彼女にはあって、ユキタ君から変な現象が起きている街を救ってくれるヒーローのように期待されることがものすごく申し訳ないことのように感じているんですよね。このわたしはヒーローにはなれないという感覚はとてもよくわかります。『響け!ユーフォニアム』の黄前久美子のような感覚だと思います。


ユキタ君からは言葉にすることの大切さを教えて貰いました。そして次に登場する、カノコちゃんからは痛みとは一体なんなのか?を知ります。痛みとは?ということをタビは自分が思ったことを言葉にしています。

そうか、そういうことか、結局生きていたら痛いことは当たり前で、そしてその痛いことから逃げていてもその痛いことは和らぐことはなくて、だからタビは逃げずに勇気をもって傷つくことを選ぶ、それは『優しい方の痛みに出会うために』

 

この痛みの解釈、自分は読んでいてとても感動しました、感じるということは刺激=痛みである、だから生きるということは傷ついて行くことなのかもしれない。この本を読んでいると度々こういった驚きがありました、『本を読むこととは他者の視点でものを見ることだ。』ということをなにかの本で読んだのですが、本当にその通りですね。自分では考えもつかなかった解釈に出会えることが本を読むことの楽しみの一つだよなぁと思う。

 

そして、タビがこうやって言葉にできたのはユキタ君の『わからなくても、言葉にしろよ』という言葉があったからだと思うと涙が出てきます。


カノコちゃんの物語は他者への幻想と依存だと思います。彼女がユキタ君を引き留めるのは自分と同じように、親(周り)から夢なんて見てないで現実を見ろと言われ続けて自分の人生を生きる動機を失なっていって···となんというか最近観た『フラガール』で、炭鉱しか産業のないところで暮らしてきた親から、ダンスなんて意味のわからないものを仕事にしようなんて馬鹿なことはやめろ!のようなことを言われるんですよね。もちろんいままでその生き方で通用してきたのだからそれ以外の生き方なんて考えられないだろうし、それ以外の生き方なんてできるとは思えなくて、心配で不安でそう言ってしまう気持ちもわかります。 それにカノコちゃんがユキタ君に言う台詞にもある

 

『現実を見てよユキ兄 頭も悪くて、顔も普通で、ユキ兄は ただのつまらん田舎者の一人なんよ
そんなつまらん自分から逃げるために夢って言葉を使ってこの街を出ていくんよ
つまらん自分を東京という場所で補おうとしとるんよ そんなユキ兄の夢って一体何?
ただ逃げ出すこととどう違うん? ユキ兄には何もない!』 

 

これの意味って、自分探しの旅に出る人とか、おれはまだ本気を出していないだけだ!って奴だと思うんです。でも、この台詞ってカノコはユキタ君に言っているつもりなんだけど、自分に対していってるんですよね。でも、この感覚こそがこの2006年の若い人の感覚だったんだろうと思います。

 

この台詞は、いまの自分に何もない、やりたいこともないんです、どうすればいいんですか?という問いなんだと思うんです。

 

それは、この物語では『逃げずに、勇気をもって傷つくこと』だと言っています。これってそうなんだと思います、自分に照らし合わせて考えると、自分は会社で働く人間です、仕事をやっていると様々なミスが発生します、そのミスを見て見ぬふりをして=問題から逃げてしまうと、そのあとに待っているのはもっと大きいミスに繋がるということです。ミスを見つけた時点で、解決していればそれ以上問題が大きくなることはありません(めったに)。あとは例えば、喧嘩してすぐに謝ればよかったものを、謝れずにそのままでいる。みたいな奴とか。

 

だから『優しい方の痛みに出会うために』に『逃げずに、勇気をもって傷つくこと』なんですね。順番が逆なんだ、逃げずに勇気をもって傷つくことで優しい痛みに出会えるんじゃなくて、優しい痛みに出会うために傷つくことを選ぶんだ!生きていることは、刺激を受けること=痛みを感じること、楽しいことも刺激を感じることであって、でもその刺激は優しい方の痛みだから、逃げずに勇気を持って傷つくことを選ぶんだ。

 

いやぁ、でもこのカノコちゃんのエピソードは本当に素晴らしい、何もないと思っていたけど、それって他人が光っているのはよくわかるんだけど、自分が光っているかは自分で見えていないだけなんだよ。とか傷ついて、傷ついて、自分を磨いて、ひかり輝くんだ。とかもう最高です、うまく説明できないのが悔しい···。

 


三巻でスポットが当たるクロネ君のエピソードは タビがまだ『わからなくても言葉にすること』が出来なかった時に出会っている少年で、1巻では言葉にして伝えていなかった側で、クロネ君は言葉にして伝えてもらえなかった側の対比を描いているんじゃなかなと思います。 

 

自分から渡した贈り物を、受けとるだけでなにも返してくれないタビのことを『どろぼう』だとクロネ君は認識していて、タビのことを憎く思ってる子でした。でも、コウヘイの証言によってタビは言葉にして伝えることは出来なかったけれど、クロネ君に感謝していたよ。とクロネ君に教えてあげている。

 

これからわかるのは、言葉にする方も大変なんだけど、言葉にして伝えて貰わなかった方だって大変なんですよね、ディスコミュニケーションって奴ですかね。じゃあどうすればよかったのか?をコウイチさんは教えてくれます。それは、固く手を握りしめずに開かないと、誰とも手をつなぐことができないということでした。手を握りしめている=自分から拒絶するということ。自分から相手を拒絶したら誰ともわかりあえないのは当然ですよね。だからこそ、手を開いて、拒絶せずに、『逃げずに、勇気をもって傷つくこと』ということなんだ。

 


3巻ではこれだけでももの凄い感情になってしまうのに、さらにクロネ君の次にスポットのあたるユキタ君のエピソード。このエピソードがもう、自分は読んでいてすげぇなぁ、まじですげぇいいエピソードだなぁって、このユキタ君のエピソードが一番好きだ。

ユキタ君は典型的な『おれはまだ本気を出していないだけだ!』君で、ワナビーって呼ばれる奴ですよね。

 

ワナビー (wannabe) は、want to be(…になりたい)を短縮した英語の俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8A%E3%83%93%E3%83%BC

 
いやもう、なんていうか『・・・なりたい』でうわべだけ対象になりきり本質を捉えていない者なんて、自分のことを言われているようで、めっちゃ心にグサグサくるんですが・・・。だからこそ、このユキタ君のエピソードが好きなんですが(苦笑)

 

さて、ユキタ君は舞台役者になりたい!!という夢を持ちますが、この夢ってユキタ君にとってはなんでもよかったんです、自分が自分であることの証明になるなら。だから本気で舞台役者になりたいんじゃなくて、このなにもない自分と街から逃げ出したいだけなんですね。自分探しの旅をしたくなる若者と一緒だと思います。そりゃ、周りの同級生や近所の人からは笑い者にされますよね。

 

でも、でもね・・・、そんな現実の見えていないユキタ君に、お巡りさんであるニシムラさんからかけられる言葉がとっても素晴らしいんだ
よ!!!

『そりゃそうだよ、ユキタ君

街中で大声を張り上げても奇人変人

ユキタ君は地面の上で叫んでるもの

同じことでも舞台役者は舞台の上で叫ぶでしょ

それが認められるか、認められないか

人それぞれの場所ってきっとあるんだよ

だから、みんな最後の最後まであきらめないで

自分がいてもいい場所を、一生かけて探していくんだよ 』

 

そう、そうんなんだよ。他人から評価されることととか、自分がなにものなのかとかそういうことじゃないんだよ、自分がいてもいい場所、つまりは=自分が一生を懸けて楽しめることを探すことなんですよ!!!そうすれば、自分の人生に充実できるんだと思うんだ。だから、この作品のテーマでもあるんだと思うんです。人生とは『自分のいてもいい場所』を探す『旅』なんだ。(た、たぶん・・・) あ、探すってことから能動的な、自分から動かないといけないってのも大事なこの本のテーマでもあると思います。待っているだけじゃ駄目なんだ、なにかアクションをしないと。それが泣くことでも大声を張り上げることでもいいのだけれども。

 


4、5巻では大人組の、ニシムラさんと、ツキコさんのエピソード。この二人は大人にみえていたけども、実は『居場所』を探している人達であったということがわかります。 (突然だけど、ツキコさんって『やがて君になる』の七海燈子先輩に似てるよね。姉がとかさ。)

 

5巻では、ユキタくんが成長して、ニシムラさんに救ってもらった恩を返している。そして、ニシムラさんは自分の言葉がどれ程ユキタ君を救っていたのか自覚していなかったんだなぁ。これはクロネ君がタビから直接感謝の言葉を言われなかったから気がつかなかったことと一緒で言葉にしないと伝わらないんだ。それと、やっぱりこのユキタ君とニシムラさんのエピソードがやっぱり好きなんだよなぁ、ニシムラさんの言葉がキッカケで成長できたユキタ君がニシムラさんにかける言葉が最高なんです・・・。

『飛べないって嘆くけど、ニシムラさんは本当に飛びたかったの?

中略

それに・・・さ

空、飛ぶなんてつまんないよ

だって、空を飛ぶために、手を羽にしちゃったら

誰とも手をつなげなくなっちゃうじゃん

こうやって手を伸ばして・・・

俺らは空じゃなくて

いていい場所じゃなくて

いたい場所へ

一生かけてずっと歩いていくんでしょ?』

 

まだユキタ君が高校生だった頃、ニシムラさんに言われた言葉をユキタ君は自分で解釈して、自分のなかで考えて、そして貰った言葉をもう自分のものにしていて、だから借り物のような言葉でなくて自分の言葉として言っているんですよね。ユキタ君は成長しているんだ。ニシムラさんを助けてあげられるくらいに立派に。そんなユキタ君を見てニシムラさんはようやく気がつきます、自分のことを必要としてくれる相手を、自分が世界の端役なんかではなくて、誰かの物語の一部になれることを。

『僕も星の端くれだったのか』

ニシムラさんのエピソードである、自分は主役ではなくて端役なんだ。という想いはとてもよくわかります。

kenkounauma.hatenablog.com

上記の記事で書いた『特別になれない自分』のことなんだと思うんです。だけど、輝く場所が違うだけで、例えば学校で輝いてる人と輝いてない人ってのは、たまたまその場所だと輝けただけというだけだし、輝けない人はその場所が本当の居場所ではないっていうだけなんです。得意なことが違ったっていうだけなんです。だから、ユキタ君がいうように、自分が輝ける場所へ、『いたい場所へ』行くんですね。でも、一生かけてって言ってるように簡単には見つからないんです。自分も20年以上生きてきてようやく『いたい場所』ってのを見つけられましたから。

 


6巻ではツキコさんの過去とコウイチとの物語が語られます。

コウイチさんは、誰にでも優しい木のような人。だけどそれって誰にも興味がないのと一緒なんじゃないの?航ちゃんは誰のことも特別に好きという感情はなかったんです。

そんなコウイチの優しさを自分だけの居場所にしたかった、だけど私だけに優しくしてくれていたわけじゃなく、みんなに優しくできる人だったことを知ります。居場所にしたかった、寄りかかりたかったっていうことなんだと思うんです、自分を救ってくれた人に甘えたかった。でも、コウイチはツキコにだけその優しさを与えていたわけじゃなかったんですよね、まるで木のような人で、その下で誰でも涼むことを許してくれる場所であって、だれかのためだけの場所ではないんだ。この物語が『居場所を探す物語』であるとするとコウイチはツキコの居場所にはなってくれないんです。コウイチさんはツキコさんを必要としていない。

 

それにツキコさんは気がついてしまったんですよね、唯一自分を『ツキコ』と呼ばずに名字である『イズミ』さんと呼んでくれるコウイチさんはそれが親愛の証ではなくて、ただの優しさであったことに。

 


最終巻でタビはこの街を元に戻したい!という目的のために前に進んでいった結果、航ちゃんは死んでしまうという事実にたどり着いてしまいます。これは宮崎駿さんが『今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった』と言っていて、何を言っているかというと男の子の夢を突き進めると、なにを犠牲にしてでも前に進むんだ!という善意の暴走を起こして、結果『未来少年コナン』や『風の谷のナウシカ』にあるような科学文明が引き起こした世界の滅亡という結果になってしまう。ということ。

 

でも、この作者さんは、それでも前に進むんだ!傷を受け入れて立ち向かうんだ!現実と戦うんだ!という結論を出されたんだと思うんです。だって、なにもしなければ優しくない方の痛みに出会うわけですから。

 

それとこのラストでタビが自分が居なくなれば誰も哀しまずに済む、というのは『魔法少女まどかマギカ』でまどかがほむらちゃんのループを止めるために、自分が居なくなることで解決したことを思い出します。それっていうのは英雄が人柱になって世界を救ったという物語で、『バトルスピリッツ ブレイブ』2010年のばしんダン君も世界を救うために人柱になってたなぁ、あ、あと『まおゆう』2010では勇者一人に責任を押し付けないで、みんなが勇者になることで勇者を救おうとしてましたね。そして、『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』2013 ではほむらちゃんがまどかを救ういだし、一人に世界の痛みを押し付けないでみんなで痛みを感じようという結論に至っていて、まどかという勇者をほむらは救い出したという風に言えます。そう考えると『バトルスピリッツ サーガブレイブ』2019 では生け贄になることで世界を救ったばしんダンをどういう風に扱うのか?がとても楽しみです。

 

話が逸れたので元に戻して、タビは航ちゃんが生きている未来をなぜ選択したのか?が丁寧に説明されています。それは①世界(=街)のため②自分のため③仲間のための3つの理由からでした。でも守ろうとしていた大切な人たちからこの理由を否定(?)されていくんですよ!

 

そして、タビは自分にとってなにが一番幸せ、優しい方の痛みになるかの結論を出します。彼女が守ろうと思っていた大切な人たちが自分のことをこんなにも必要としてくれることで彼女は、自分が生きていてもいいんだ、だってこんなにも自分を必要としてくれる人がいるのだから。という結論をタビは『自分の居場所』を見つけられたんです。そうすることでようやくタビは自分が生きていてもいいんだ、航ちゃんが死んでしまった現実を受け入れるんだ、という決断ができたんです。


つまりは、逃げずに勇気を持って傷つくことを選択するには、居場所を作らなくてはいけなくって、でもその居場所をつくるためには『逃げずに勇気を持って傷つくこと』を選択しなくてはいけない、という矛盾。

 

この作品の開始が2006年9月で、終わりが2010年4月かぁ、なるほどー、いやーー!本当に素晴らしい作品でした、紹介してくれてありがとうございます!! 手を伸ばしたからこういった本に出会えたってことなんだろなー。

『響け!ユーフォニアム』『響け!ユーフォニアム2』 特別じゃない人間と特別な人間なんて本当にいるの?

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黄前久美子は1期で語られている「本気で全国に行けると思ってたの?」にこの子の全てが集約されていると思う。

 

自分のやっていることが、将来に結び付くのか?という疑問があって、部活をやっている人間は本当にプロになれるとか、そうじゃなくても試合に勝つとか、コンクールに入賞するとか、そういった目標を掲げてはいるけれども、本当にそれが達成できるなんて思っていないんじゃないか?と思います。というか、これは自分の実感として、スポーツ少年だった自分もなんとなく大会で優勝するっていう目標を掲げていたけど、でも実際に優勝できるなんて思ってなかったです。だから久美子の言う

 

「本気で全国行けると思ってたの?」

 

この言葉を発する気持ちがわかってしまいます。では、逆に言うとなぜ「全国になんていける訳がない」のか?それは、本気で部活をやっていたとしても、分かっているからなんですよね、自分には才能がなくて、自分より上手い人間はたくさんいて、この分野では自分は特別になれない。という想いを抱いていていたからです。優勝するために部活をやっていても心のどこかでは「全国なんていけるはずない」と諦めているんです。

 

1期では、このどこか冷めた、黄前久美子高坂麗奈の『特別になる』という情熱を知り、自分も特別になりたいと音楽に対する情熱を、ひいては人生を生きる情熱を持つ物語でした。


では、2期はどういった物語だったのか?というと、1期で焦点を当てていたキャラを観ると『黄前久美子』『加藤葉月』『中川夏紀』『中世古香織』このキャラたちの共通点はなにか?と言うと、『特別な人間ではない人たち』なんだと思うんですよね。

 

この『特別ではない人たち』が、人生の情熱を取り戻していく、特別な人間に劣らない人生を歩もうともがく物語だったのではないかと思うのです。

 

そうすると2期で焦点を当てられるキャラ達をみると『鎧塚みぞれ』『田中あすか』『滝昇』『高坂麗奈』このキャラ達の共通点はソロパートを任せられるほどの実力者であるということ、吹奏楽部的に言えば『特別な人間』であると言えます。つまり、1期では『特別ではない人間』側の物語を、2期は『特別な人間』側の物語をやっている。これ、なにを意味するかというと、才能のある人間と才能のない人間の対立構造を解体する物語なんだと思うんです。

 

1期で語られた特別ではない人間側の物語では、才能のない自分がどうすれば情熱を持って人生を生きていけますか?という問いがなされます。でもこれって、極端に言うと才能さえあれば情熱をもって人生を生きていけたのに!と言っているんですよね。

 

それを、2期では、じゃあ、才能のある人間はなにも苦悩を抱えずに生きているの?ということに答えたんだと思うです。『鎧塚みぞれ』も『滝昇』も『田中あすか』も『高坂れいな』もなにも事情を知らない人間からすれば、好きなことで実力を発揮できる、なにも苦悩のない人間のようにみえていると思います。でもそうじゃないですよね。

 

『鎧塚みぞれ』はオーボエのソロを任せられるくらいの実力者です。でも彼女は中学生の頃は一人ぼっちでいる子で、その時に話しかけてくれた『傘木希美』を自分を見つけてくれた、自分の存在理由を与えてくれたとして認識します。ですがその希美が部活をやめる時に自分に声をかけずに辞めていったことを知ってショックを受けます。彼女がオーボエのソロを任せられるくらいの実力者であるのは、希美に再び見つけてほしいからでした。でも、それとと同時に希美から、あなたは私にとって必要な人間ではないということを言われてしまうのではないかと恐怖しています。彼女がコンクールが嫌いだという理由が、他人によって順位を決められてしまうからなのですが、これは自分と希美の関係性のことを指しているからなんだと思うんですよね。希美にはたくさん友達がいて、自分はそのたくさんの友達のなかの一人であって、1番ではない、たくさんの中から順位をつけられているように感じていたからなんだと思います。才能を持っているように見えたみぞれは、わたしを見つけてくれた希美への執着と恐怖を抱えて生きている人間だったんだと語られます。

 

『滝昇』は部活勧誘時点ではとても全国に行けるような実力を持っていなかった吹奏楽部を、全国へと導いた実力の持ち主です。ですが、彼は奥さんを亡くし、すぐに立ち直れた訳ではありませんでした。立ち直れた理由ははっきりとは明言されませんが、恐らく亡くなった奥さんの夢であった『母校で副顧問になって全国で金賞をとる』という夢を叶える機会が訪れたから立ち直れたのではないかと思うんです。ですから彼が吹奏楽部を全国へと導いたのは、みんなのためでなく、自分の奥さんの夢を叶えるためだったんです。滝先生は奥さんがもうこの世にはいないという苦悩を抱えて生きています。

 

田中あすか』は副部長ではあるが、実力は部内でトップである実力者。しかし時折見せる冷徹な一面もあり、彼女は自分達とは違う特別な人間なんだと一歩線を引かれている。ですが、あすかは特別な人間なんかではなく、感情の持った普通の高校生であることが描かれます。彼女は『ずっと好きなことを続けるために必死だった。だから廻りをみていつも思ってた。わたしは遊びでやってるわけじゃない、ひとりで吹ければそれでいいって』と言っています。彼女が好きなことを続けるために必死で生きていたんですね、母親から認められないと楽器を演奏し続けることができないから。だからあすかもなんの苦悩もなく音楽をしているわけじゃないんですよね。 あすかが音楽を続けている理由は母親への対抗心からだっただろうし、それだけじゃなくて、父との繋がりを感じるためにユーフォを吹いていたんだと思う。河原で言う「わたし、自分のことユーフォっぽくないなってずっと思ってたんだ」は自分ではユーフォが好きなわけじゃなくて父との繋がりを感じるために演奏していると思っていたんだと思う。

 


こうして2期では執拗に才能があると見えた人間だちの様々な苦悩を描いていきます、才能さえあれば楽しく生きていけるということを否定していきます。小笠原春香があすかが親の問題をあっけらかんと解決しないことに対して『がっかりかな。わたしどこかで特別でいて欲しいと思っているのかもね』と言います。これはまさに、

 

あの人が特別なのは自分とは違って特別だからで、特別ではない自分が特別になれないのは仕方のないことなんだ。

 

と言っているんですよ。あの人は特別だから、自分が特別になれないのは仕方のないことと言って自分のことを納得させているんですね。だから特別だと思っていた人が、自分と同じ人間だと困っちゃうんですよ、だってそうすると特別だと思っていた人間が実は普通の、自分と変わらない感情を持った人間なんだって解ってしまうから。特別な人間なんていないんだと解ってしまうからです。自分が特別になれないのは自分のせいだと解ってしまうからです。

 

だからこの物語は特別じゃない人間と特別な人間を解体する物語なんです。

 

これは『俺の青春ラブコメはやはり間違っている』のリア充に見えて毎日楽しそうに見えた葉山くんが実は、仲間内の人間関係に気を使っていたり、本当に自分のしたいことに対して一歩を踏み出せない人間あることが描かれ、非リア充であるヒッキーが自分が傷つくことを恐れずに行動する様をみて、憧れを抱くという、リア充と非リア充の解体を描いた物語を思い出します。

 


響け!ユーフォニアム』は自分がなにものであるのか?を問う物語だったのだと思います。それは田中あすかが部活に復帰した理由を考えるとそうなんじゃないか?と思うんですよね。

 

あすかは部活をやめる気でいたのは、自分の『全国で父に自分の演奏している音を届けたい』という夢に付き合わせた罪に対する罰だからと考えていたからなんだと思うのですが、それに対して久美子が言うんですね、「先輩のユーフォが聞きたいです」(=あなたの演奏が好きです)だから戻ってきて欲しいと。

 

これはあすかにとって衝撃的な言葉だったのではないだろうか、彼女は自分の演奏が他の部員よりも上なのはそれにみあった練習をしているからだという自負があっただろうし、廻りからも上手いと言われることに対して当然だと思っていたんだろうと思います。でも、最初の説得では心が動かなかったんですよね、それは「みんな」が帰ってきてほしいという、「集団」の意見という全くあやふやなもの、それって誰が言ったの?というものだったからですね。だから、久美子が「わたしが」という、個人の意見になるとそれは信じられるんですよね。そして久美子から上手いではなく、あなたの吹く音が好きだと言われ、『響け!ユーフォニアム』では演奏をしている人間の精神が演奏に影響を与えるという描写をされることがあります、だから「先輩のユーフォが聞きたいです」(=あなたの演奏が好きです)と言われたら、それはあなたの内面が好きだと言っているんですね。

 

あすかは母親から演奏について否定されて生きてきました、それが久美子によって肯定されるんです。あすかにとって演奏することは自分を表現する手段だったのだろうと思います。それを肯定してくれたということは、自分のことを肯定してくれたということなんですよね。そして、その肯定は本当は家族から欲しかったものだったんだと思います。だから、部活に帰ってきたときにあすかは「ただいま」と言い、そして久美子から「おかえりなさい」と返されるんですね。

 

あすかは自分は自分のままでいていいんだと肯定して、部活に復帰したのだと思います。

 

この辺のあすかが語らない想いは、他のキャラを使って表現されていたんじゃないかなーとも思う。例えば、4話でみぞれに対して優子が

「誰が好き好んで嫌いな奴と行動するのよ!(中略)同情?なにそれ、みぞれは私のこと友達と思ってなかったわけ?部活だってそう、本当に希美のためだけに吹奏楽続けてたの?あんだけ練習して、コンクール目指してなにもなかった?(略)」

この台詞、あすかにも当てはまるし、13話で滝先生が言う

「実を言うと少し自信がなかったので嬉しかったです、自分のやりたいことを押し付けてばかりで、皆さんには好かれていないと思っていたので」

これは、あすかの気持ちを代弁しているんだと思います。


ユーフォでは頑張れる人間達が描かれます、でもそれは彼女達が特別だからではないんです。どんなに特別に見える人間でも苦悩を抱えて生きているんです。そして、その苦悩を、トラウマをどうすれば乗り越えられるのか?というと「好きなことをやる」ことなんだと思います。久美子も、麗奈も、あすかも、みぞれも、滝先生だってそうです。好きなことをやることが、この現実生きるに足る活力を与えてくれることなんだと思います。

 そして『響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』へと物語は続く

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