今日も一日健やかに物語を

おもしろいと思ったものを

『星炉病棟』 春井安子著 答えを見てからだと悔しいので!

解説が来てしまうということだったでので急いで読んで、自分なりの考察を並べてみる。オタクは負けず嫌い。

色々と自分で疑問に思ったこととその答えを順番に1ページ目から。
『死んだ』のは同じ病室だった、死にそうな顔をした爺さん。ただなんで、クーヤが死んだように思えるかというと、初期設定だとクーヤは幽霊設定だったようなので、ここはクーヤが死んでるシーンでもあったのだと思う。

『四十九日』は
四十九日の意味
四十九日とは仏教用語のひとつで、命日から数えて49日目に行う追善法要のことを指します。

なぜ49日なのかといいますと、仏教では人が亡くなるとあの世で7日毎に極楽浄土へ行けるかの裁判が行われ、その最後の判決の日が49日目となるためです。(七七日[なななぬか・しちなのか]と言われることもあります。)

従来は裁判が行われる7日毎に法要を行うものとされていましたが、現代では7日ごとに法要を行うのは難しいため、最初の裁判である「初七日(しょなのか)」と、最終裁判にあたる「四十九日」のみ法要を行うというのが一般的になりました。
https://www.aeonlife.jp/mosyu/contents/sijyukunichi.html

自分の勝手な四十九日の解釈だと、故人の魂がまだ天に召されていない状態が終わりを迎える日、つまり死後の病棟でお爺さんの魂と話せる最後の日ってことですかね。

『クーヤの自殺の理由』これはあれですね、なぜ生きているのか?の分かりやすい目標がなくなった現代で思う疑問。勉強して、いい学校に行っていい会社に入って。それになんの意味があるの?結局死ぬのに。といった、昔の生きるのに必死だった時代には思いもしなかったことが、現代の裕福で少なくとも明日食べるものに困ってない時代で、生きる意味なんかを考えて、答えがでなくて、空虚で虚しくて、生きててもしょうがないって思って自殺する。とても現代的な病ですね(?)

それともう一つは自分を叱ってくれる爺さんに会いたかったのではないかな、クーヤは自分を出さずに、愛想のいい子として振る舞っているから、いい子ではない自分を出せる他人の存在はクーヤの癒しだったのだと思うんだ。そんで自分を本気で心配してくれて、叱ってくれる存在でもあった。クーヤの周りの人は誰も彼の本心を知らず、嘘を受け入れてクーヤの闇に踏み込んでは来なかった、だから爺さんが自分を見てくれて、叱ってくれて、それってクーヤにしてみたら自分の存在を証明してくれているように感じられたのだと思う。

 

『人は一人で生きていけいないとかくそ寒いこと』この人は一人じゃ生きていけないって結構昔に流行った言葉な気がする。現実問題、人は一人で生きていけないんだけどこれは体的な問題であって、心の疑問には解決できてない気がする。
だから、人は一人でも生きていけるってのを、精神の充実?的な観点から言うと、もちろん一人でも楽しいけど、でも友達とか他人がいると一人じゃ出来ないことができて、別の楽しさがある。って言う答えをなんとなく思いついた。こうやって感想書くのもそうだし、作品を書いてくださる方がいて感想が言える訳だし、誰かの感想をみて、そういう見方もあるのかって気づいて楽しくなったりする。人は一人でも生きていけるかもだけど、誰かがいると別の楽しさがあるって思うんだ。

『本気で死のうと思うなら、自分の意思だけでここまで来い』これはなんだろう?イナカのことを心配して言った言葉だととると、理由もちゃんと考えたりしないで死ぬなよ。それじゃ僕(クーヤ)と同じだろ。って感じかな。これクーヤ自身対して言ってる言葉でもあるんだと思うんだなー。だから自分に響くんだ。

『熱圏エレベーター』むむむ、これが難解。うーーん?なんだろう?体は燃え尽きるけど魂(精神、後悔、未練)はどうなるの?→星になるよ☆ってことかなー?


全然考察とはほど遠いのでは? 今回の話は春井さんの前回のコミティアで配布されていたペーパーで書かれていたことが影響してるのではないかと考えたりする。感想はまた別であげたいと思います。オタクハメンドクサイ。