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『タビと道づれ』たなかのか著 地上に輝く星々の物語

ゆy[まとめ買い] タビと道づれ

結構だらだらと長文を書いてしまったので、先に結論から言うと、

素晴らしい傑作だから読んで!2000年頃の日本の若者がいったいなにに悩んでいて、そしてそこから脱出するためにどうしたか?がよくわかる物語でした。

というようなことをここから下はネタバレありで長々と書いているだけです。

 

 


こんなに素晴らしい作品があったなんて!!! この作品が2006年に出ているのもすごく面白いですね、同時代で言うとマブラブオルタがあるのですが、このマブラヴエヴァへの答えを提示した作品、『逃げた先にまつのは現実で、その現実に対してどうすれば立ち向かうことができるのか?』という動機ない人間が、動機を獲得するまでの物語だったんだと思います。

 

タビと道づれ』もその『逃げた先に待つのは現実で、その現実に対してどうすれば立ち向かうことができるのか?』というのをテーマにしていると感じました。主人公であるタビ()は学校でのツラい日常から逃げてきて、5年前まで住んでいた街へ航ちゃんに会いに行いきます。しかしその街は、街から出れないし、同じ1日を繰り返すという現象が発生していました。

 

この、街から出れない、同じ1日を繰り返すというのは、主人公であるタビのような学生は日常の風景ですよね。学校というのは自分の決定では転校したり、退校することの出来ない、出ることの出来ない閉鎖空間で、そして卒業するまではほぼ変わらない毎日を過ごす場所です。そして、その空間が自分の居場所ではないという感じがするから、ここではないどこかに自分の居場所があると思って外の世界に救いを求めるんだと思います。

 

では、『どうすれば自分の居場所を見つけられるのか?』というテーマに対して、こちらの作品では自分のなかに居場所はあって、それに気づくためには色々な人に逃げずに会うことだと言っているんだと思います。

 

主人公であるタビは、幼少からイジメられていて、その原因として自分が他の人達と違って足が遅いからとか、言葉がうまく伝えられないからという風に考えています。そのツラさを癒してくれたのがプラネタリウムで働く航ちゃんでした。

 

でも、タビは転校してしまい、航ちゃんと会うことができなくなってしまいます。そして、高校でもまたイジメに合います。

 

このテーマって最近ですと『宇宙よりも遠い場所』の三宅日向を思い出します、彼女も学校でうまくいかなくて、自信を取り戻して再び現実に戻るためにはどうすればいいのか?というテーマがありました。日向の場合、元々その現実が間違っていたんだ!という答えにたどり着きましたね。

 

さて、ではタビはどうしたのかというと、彼女はユキタ君に出会うことで変わっていきます。いままで友達が居なかったタビにとってユキタ君は、友達とは一体どういう関係なのか、と他人との接し方を学ばせてくれる存在でした。タビは友達がいないのは自分のせいだと思い苦しんでいます、ですがユキタ君など、様々な人が彼女と本当の友達になります。なぜ、友達になれたのか?というと、ユキタ君に教えてもらった

 

『お前はなんのために口がついている? わからなくても、言葉にしろよ』

 

この言葉をかけてもらってからタビは説明はできないのだけど思ったことを言葉にすることを実行していきます。この些細な変化によってタビは様々な人とのコミュニケーションが可能となり、そしてタビがどういう子なのか?をその言葉から知ることができた人たちは彼女と関係性を育んでいきます。

これは『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』のもこっちを思いだすなー、彼女も自分の思っていることを素直に言っちゃうんですが(だいたいヒドイこと言ってる)、その恐れずに発言する彼女を見てもっともこっちを知りたいと思ってくれる人がポツポツ現れましたね。


1巻でタビが『わたしがわたしじゃなかったらよかったのに』というの台詞はものすごいグッとくるし、この感覚が彼女にはあって、ユキタ君から変な現象が起きている街を救ってくれるヒーローのように期待されることがものすごく申し訳ないことのように感じているんですよね。このわたしはヒーローにはなれないという感覚はとてもよくわかります。『響け!ユーフォニアム』の黄前久美子のような感覚だと思います。


ユキタ君からは言葉にすることの大切さを教えて貰いました。そして次に登場する、カノコちゃんからは痛みとは一体なんなのか?を知ります。痛みとは?ということをタビは自分が思ったことを言葉にしています。

そうか、そういうことか、結局生きていたら痛いことは当たり前で、そしてその痛いことから逃げていてもその痛いことは和らぐことはなくて、だからタビは逃げずに勇気をもって傷つくことを選ぶ、それは『優しい方の痛みに出会うために』

 

この痛みの解釈、自分は読んでいてとても感動しました、感じるということは刺激=痛みである、だから生きるということは傷ついて行くことなのかもしれない。この本を読んでいると度々こういった驚きがありました、『本を読むこととは他者の視点でものを見ることだ。』ということをなにかの本で読んだのですが、本当にその通りですね。自分では考えもつかなかった解釈に出会えることが本を読むことの楽しみの一つだよなぁと思う。

 

そして、タビがこうやって言葉にできたのはユキタ君の『わからなくても、言葉にしろよ』という言葉があったからだと思うと涙が出てきます。


カノコちゃんの物語は他者への幻想と依存だと思います。彼女がユキタ君を引き留めるのは自分と同じように、親(周り)から夢なんて見てないで現実を見ろと言われ続けて自分の人生を生きる動機を失なっていって···となんというか最近観た『フラガール』で、炭鉱しか産業のないところで暮らしてきた親から、ダンスなんて意味のわからないものを仕事にしようなんて馬鹿なことはやめろ!のようなことを言われるんですよね。もちろんいままでその生き方で通用してきたのだからそれ以外の生き方なんて考えられないだろうし、それ以外の生き方なんてできるとは思えなくて、心配で不安でそう言ってしまう気持ちもわかります。 それにカノコちゃんがユキタ君に言う台詞にもある

 

『現実を見てよユキ兄 頭も悪くて、顔も普通で、ユキ兄は ただのつまらん田舎者の一人なんよ
そんなつまらん自分から逃げるために夢って言葉を使ってこの街を出ていくんよ
つまらん自分を東京という場所で補おうとしとるんよ そんなユキ兄の夢って一体何?
ただ逃げ出すこととどう違うん? ユキ兄には何もない!』 

 

これの意味って、自分探しの旅に出る人とか、おれはまだ本気を出していないだけだ!って奴だと思うんです。でも、この台詞ってカノコはユキタ君に言っているつもりなんだけど、自分に対していってるんですよね。でも、この感覚こそがこの2006年の若い人の感覚だったんだろうと思います。

 

この台詞は、いまの自分に何もない、やりたいこともないんです、どうすればいいんですか?という問いなんだと思うんです。

 

それは、この物語では『逃げずに、勇気をもって傷つくこと』だと言っています。これってそうなんだと思います、自分に照らし合わせて考えると、自分は会社で働く人間です、仕事をやっていると様々なミスが発生します、そのミスを見て見ぬふりをして=問題から逃げてしまうと、そのあとに待っているのはもっと大きいミスに繋がるということです。ミスを見つけた時点で、解決していればそれ以上問題が大きくなることはありません(めったに)。あとは例えば、喧嘩してすぐに謝ればよかったものを、謝れずにそのままでいる。みたいな奴とか。

 

だから『優しい方の痛みに出会うために』に『逃げずに、勇気をもって傷つくこと』なんですね。順番が逆なんだ、逃げずに勇気をもって傷つくことで優しい痛みに出会えるんじゃなくて、優しい痛みに出会うために傷つくことを選ぶんだ!生きていることは、刺激を受けること=痛みを感じること、楽しいことも刺激を感じることであって、でもその刺激は優しい方の痛みだから、逃げずに勇気を持って傷つくことを選ぶんだ。

 

いやぁ、でもこのカノコちゃんのエピソードは本当に素晴らしい、何もないと思っていたけど、それって他人が光っているのはよくわかるんだけど、自分が光っているかは自分で見えていないだけなんだよ。とか傷ついて、傷ついて、自分を磨いて、ひかり輝くんだ。とかもう最高です、うまく説明できないのが悔しい···。

 


三巻でスポットが当たるクロネ君のエピソードは タビがまだ『わからなくても言葉にすること』が出来なかった時に出会っている少年で、1巻では言葉にして伝えていなかった側で、クロネ君は言葉にして伝えてもらえなかった側の対比を描いているんじゃなかなと思います。 

 

自分から渡した贈り物を、受けとるだけでなにも返してくれないタビのことを『どろぼう』だとクロネ君は認識していて、タビのことを憎く思ってる子でした。でも、コウヘイの証言によってタビは言葉にして伝えることは出来なかったけれど、クロネ君に感謝していたよ。とクロネ君に教えてあげている。

 

これからわかるのは、言葉にする方も大変なんだけど、言葉にして伝えて貰わなかった方だって大変なんですよね、ディスコミュニケーションって奴ですかね。じゃあどうすればよかったのか?をコウイチさんは教えてくれます。それは、固く手を握りしめずに開かないと、誰とも手をつなぐことができないということでした。手を握りしめている=自分から拒絶するということ。自分から相手を拒絶したら誰ともわかりあえないのは当然ですよね。だからこそ、手を開いて、拒絶せずに、『逃げずに、勇気をもって傷つくこと』ということなんだ。

 


3巻ではこれだけでももの凄い感情になってしまうのに、さらにクロネ君の次にスポットのあたるユキタ君のエピソード。このエピソードがもう、自分は読んでいてすげぇなぁ、まじですげぇいいエピソードだなぁって、このユキタ君のエピソードが一番好きだ。

ユキタ君は典型的な『おれはまだ本気を出していないだけだ!』君で、ワナビーって呼ばれる奴ですよね。

 

ワナビー (wannabe) は、want to be(…になりたい)を短縮した英語の俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8A%E3%83%93%E3%83%BC

 
いやもう、なんていうか『・・・なりたい』でうわべだけ対象になりきり本質を捉えていない者なんて、自分のことを言われているようで、めっちゃ心にグサグサくるんですが・・・。だからこそ、このユキタ君のエピソードが好きなんですが(苦笑)

 

さて、ユキタ君は舞台役者になりたい!!という夢を持ちますが、この夢ってユキタ君にとってはなんでもよかったんです、自分が自分であることの証明になるなら。だから本気で舞台役者になりたいんじゃなくて、このなにもない自分と街から逃げ出したいだけなんですね。自分探しの旅をしたくなる若者と一緒だと思います。そりゃ、周りの同級生や近所の人からは笑い者にされますよね。

 

でも、でもね・・・、そんな現実の見えていないユキタ君に、お巡りさんであるニシムラさんからかけられる言葉がとっても素晴らしいんだ
よ!!!

『そりゃそうだよ、ユキタ君

街中で大声を張り上げても奇人変人

ユキタ君は地面の上で叫んでるもの

同じことでも舞台役者は舞台の上で叫ぶでしょ

それが認められるか、認められないか

人それぞれの場所ってきっとあるんだよ

だから、みんな最後の最後まであきらめないで

自分がいてもいい場所を、一生かけて探していくんだよ 』

 

そう、そうんなんだよ。他人から評価されることととか、自分がなにものなのかとかそういうことじゃないんだよ、自分がいてもいい場所、つまりは=自分が一生を懸けて楽しめることを探すことなんですよ!!!そうすれば、自分の人生に充実できるんだと思うんだ。だから、この作品のテーマでもあるんだと思うんです。人生とは『自分のいてもいい場所』を探す『旅』なんだ。(た、たぶん・・・) あ、探すってことから能動的な、自分から動かないといけないってのも大事なこの本のテーマでもあると思います。待っているだけじゃ駄目なんだ、なにかアクションをしないと。それが泣くことでも大声を張り上げることでもいいのだけれども。

 


4、5巻では大人組の、ニシムラさんと、ツキコさんのエピソード。この二人は大人にみえていたけども、実は『居場所』を探している人達であったということがわかります。 (突然だけど、ツキコさんって『やがて君になる』の七海燈子先輩に似てるよね。姉がとかさ。)

 

5巻では、ユキタくんが成長して、ニシムラさんに救ってもらった恩を返している。そして、ニシムラさんは自分の言葉がどれ程ユキタ君を救っていたのか自覚していなかったんだなぁ。これはクロネ君がタビから直接感謝の言葉を言われなかったから気がつかなかったことと一緒で言葉にしないと伝わらないんだ。それと、やっぱりこのユキタ君とニシムラさんのエピソードがやっぱり好きなんだよなぁ、ニシムラさんの言葉がキッカケで成長できたユキタ君がニシムラさんにかける言葉が最高なんです・・・。

『飛べないって嘆くけど、ニシムラさんは本当に飛びたかったの?

中略

それに・・・さ

空、飛ぶなんてつまんないよ

だって、空を飛ぶために、手を羽にしちゃったら

誰とも手をつなげなくなっちゃうじゃん

こうやって手を伸ばして・・・

俺らは空じゃなくて

いていい場所じゃなくて

いたい場所へ

一生かけてずっと歩いていくんでしょ?』

 

まだユキタ君が高校生だった頃、ニシムラさんに言われた言葉をユキタ君は自分で解釈して、自分のなかで考えて、そして貰った言葉をもう自分のものにしていて、だから借り物のような言葉でなくて自分の言葉として言っているんですよね。ユキタ君は成長しているんだ。ニシムラさんを助けてあげられるくらいに立派に。そんなユキタ君を見てニシムラさんはようやく気がつきます、自分のことを必要としてくれる相手を、自分が世界の端役なんかではなくて、誰かの物語の一部になれることを。

『僕も星の端くれだったのか』

ニシムラさんのエピソードである、自分は主役ではなくて端役なんだ。という想いはとてもよくわかります。

kenkounauma.hatenablog.com

上記の記事で書いた『特別になれない自分』のことなんだと思うんです。だけど、輝く場所が違うだけで、例えば学校で輝いてる人と輝いてない人ってのは、たまたまその場所だと輝けただけというだけだし、輝けない人はその場所が本当の居場所ではないっていうだけなんです。得意なことが違ったっていうだけなんです。だから、ユキタ君がいうように、自分が輝ける場所へ、『いたい場所へ』行くんですね。でも、一生かけてって言ってるように簡単には見つからないんです。自分も20年以上生きてきてようやく『いたい場所』ってのを見つけられましたから。

 


6巻ではツキコさんの過去とコウイチとの物語が語られます。

コウイチさんは、誰にでも優しい木のような人。だけどそれって誰にも興味がないのと一緒なんじゃないの?航ちゃんは誰のことも特別に好きという感情はなかったんです。

そんなコウイチの優しさを自分だけの居場所にしたかった、だけど私だけに優しくしてくれていたわけじゃなく、みんなに優しくできる人だったことを知ります。居場所にしたかった、寄りかかりたかったっていうことなんだと思うんです、自分を救ってくれた人に甘えたかった。でも、コウイチはツキコにだけその優しさを与えていたわけじゃなかったんですよね、まるで木のような人で、その下で誰でも涼むことを許してくれる場所であって、だれかのためだけの場所ではないんだ。この物語が『居場所を探す物語』であるとするとコウイチはツキコの居場所にはなってくれないんです。コウイチさんはツキコさんを必要としていない。

 

それにツキコさんは気がついてしまったんですよね、唯一自分を『ツキコ』と呼ばずに名字である『イズミ』さんと呼んでくれるコウイチさんはそれが親愛の証ではなくて、ただの優しさであったことに。

 


最終巻でタビはこの街を元に戻したい!という目的のために前に進んでいった結果、航ちゃんは死んでしまうという事実にたどり着いてしまいます。これは宮崎駿さんが『今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった』と言っていて、何を言っているかというと男の子の夢を突き進めると、なにを犠牲にしてでも前に進むんだ!という善意の暴走を起こして、結果『未来少年コナン』や『風の谷のナウシカ』にあるような科学文明が引き起こした世界の滅亡という結果になってしまう。ということ。

 

でも、この作者さんは、それでも前に進むんだ!傷を受け入れて立ち向かうんだ!現実と戦うんだ!という結論を出されたんだと思うんです。だって、なにもしなければ優しくない方の痛みに出会うわけですから。

 

それとこのラストでタビが自分が居なくなれば誰も哀しまずに済む、というのは『魔法少女まどかマギカ』でまどかがほむらちゃんのループを止めるために、自分が居なくなることで解決したことを思い出します。それっていうのは英雄が人柱になって世界を救ったという物語で、『バトルスピリッツ ブレイブ』2010年のばしんダン君も世界を救うために人柱になってたなぁ、あ、あと『まおゆう』2010では勇者一人に責任を押し付けないで、みんなが勇者になることで勇者を救おうとしてましたね。そして、『劇場版魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』2013 ではほむらちゃんがまどかを救ういだし、一人に世界の痛みを押し付けないでみんなで痛みを感じようという結論に至っていて、まどかという勇者をほむらは救い出したという風に言えます。そう考えると『バトルスピリッツ サーガブレイブ』2019 では生け贄になることで世界を救ったばしんダンをどういう風に扱うのか?がとても楽しみです。

 

話が逸れたので元に戻して、タビは航ちゃんが生きている未来をなぜ選択したのか?が丁寧に説明されています。それは①世界(=街)のため②自分のため③仲間のための3つの理由からでした。でも守ろうとしていた大切な人たちからこの理由を否定(?)されていくんですよ!

 

そして、タビは自分にとってなにが一番幸せ、優しい方の痛みになるかの結論を出します。彼女が守ろうと思っていた大切な人たちが自分のことをこんなにも必要としてくれることで彼女は、自分が生きていてもいいんだ、だってこんなにも自分を必要としてくれる人がいるのだから。という結論をタビは『自分の居場所』を見つけられたんです。そうすることでようやくタビは自分が生きていてもいいんだ、航ちゃんが死んでしまった現実を受け入れるんだ、という決断ができたんです。


つまりは、逃げずに勇気を持って傷つくことを選択するには、居場所を作らなくてはいけなくって、でもその居場所をつくるためには『逃げずに勇気を持って傷つくこと』を選択しなくてはいけない、という矛盾。

 

この作品の開始が2006年9月で、終わりが2010年4月かぁ、なるほどー、いやーー!本当に素晴らしい作品でした、紹介してくれてありがとうございます!! 手を伸ばしたからこういった本に出会えたってことなんだろなー。