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『天気の子』  愛にできることはまだあるんだ。だから僕たちは、大丈夫だ!

小説 天気の子 (角川文庫)

 

tenkinoko.com

この感想は個人の感想であって、これが正解だよ!って言いたい訳ではないです!

ネタバレもありますので注意を。

 


素晴らしかった、あまりにも素晴らしい。映画館で泣きそうになることはいままで結構あったけれども、まだ我慢することができてました。ですが、この映画を観てるときはもう我慢できずに泣いてしまった。なので、今回の記事はなぜ泣けたのか?を書いてみたいと思います。

 


まず新海監督のことを自分は『会えない苦しみ』を描いてる人であると思っています。『ほしのこえ』ではヒロインが男の子から物理的に離されて会えない話を、『雲の向こう約束の場所』ではヒロインが所在不明になり男の子が会えない話を、『猫と彼女』では猫と人間という越えられない壁があり会っているけど通じない話を、『秒速五センチメートル』ではヒロインと男の子が親の都合で離れて会えない話を、『星を追う子供』ではヒロインは生きてて男の子が死んでいてもう二度と会えない話を、『君の名は』ではヒロインがすでに死んでいて会えないという話を。

 

そして今作『天気の子』では一体どういった会えない苦しみを描くのだろう?とワクワクしながら観てました。それと新海誠さんの作品の共通点として幸せな日常を過ごしているほどその後の不幸が待っているとも思っているので、帆高くんと陽奈さんが幸せであれば幸せであるほどこのあとどんなしっぺ返しが待っているんや~とドキドキもしながら見ていました(笑) 

 

でも、天気の子は『会えない苦しみ』が主眼ではないんだなと見終わったいまだとそう感じます。なぜならもうそこはすでに過去の問いかけでありその先を描いているからです。

 

その先とは『会えないって言ってない会いにいけよ!』ってことです。劇中のラストで須賀さんが帆高くんに

 

「お前もしょうもないことグズグズ考えてねえで、早くあの子に会いに行けよ。あの日以来会ってないって、今までいったいなにしてたんだよ?」

 

 

というんですよね。上で自分は新海さんは『会えない苦しみ』を描いている。と書きました、だからこの須賀さんの台詞を聞いて

 

それを新海さんが言うのかよ!?

 

と吃驚したんですよ。いままでずーーっと会えない男女を描いてたのに、帆高君は陽奈さんに会いに行くじゃないですか! 自分はここでもう感動の感情が溢れて涙が我慢できずに止まりませんでした。いままでの作品では会えない終わりかたを描いていたのに、『君の名は』でとうとう最後に二人は会えたという終わりかたをしていました。この時点ではこれが新海さんの気の迷いだったとも、エンタメに寄ったともまだこの時点では言えたと思うんです。でもですね、今作でも会えた。もう二作も続いて会えるという作品を描いたのだとすれば、新海監督は意識してこれを描いているんだと思います。ということはですね、

 

会えないとか言ってないで、会いに行くんだよ!

 

と言うことを肯定的に捉えているんだと思うんです、ついに、ついに新海誠監督はさきに進んだんだ!!(なに言っているんだ)
2000年代のギャルゲーのようだとか、監督が戻ってきたということではなくて、むしろ監督はさきに進んでいると自分は感じました。

全く関係なかもしれないけれど、宮崎駿監督が『風立ちぬ』で少年の物語を堂々と描いたことで庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』を、新海誠監督が『天気の子』を描けたのかもしれないと思うと、なんというか繋がりを感じて感動するなぁ。

 

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いままでの映画が、自意識の檻に捕らわれている人間を描いていたのは、それがこの世界の美しさでもあり、残酷さでもあるところに魅力を感じていたのだと思います。だから美しくも残酷である世界を、それを人間の心理描写として大切な人に『会えない』物語を描いていた。

 

この心理が変わったのが『君の名は』の前に日本を襲った大災害である3.11だったのではないかな?と思います。会えないって言ってて本当に会わないでいると突然居なくなることが現実にはあるんだよということを強烈に感じたのではないか?と思います。

 

君の名は。

 

この災害後に描かれる特徴的な映画庵野監督の『シン・ゴジラ』と新海監督の『君の名は』。『シン・ゴジラ』ではこの未曾有の災害に日本人である政治家たちやその下部組織である自衛隊や消防隊員や普通の会社員などが自らの役割を果たすために必死に仕事をし、災害への対処の理想図を描き。『君の名は』でも災害が起きることに対し、みんなで協力しあいながら災害への対処の仕方を描きました。ですが『天気の子』のパンフレットにある新海監督のパンフレットに書かれていたのですが『災害をなかったことにする許しがたい物語』と、評されたことがあったそうです、さきに書いたように『シン・ゴジラ』も『君の名は』も災害が起きたときの理想的な対処の方法を描いた映画であり、むしろちゃんと災害が起きたときのことを直視していると自分は思います。

 

新海監督は今回の『天気の子』で『賛否両論がある作品を作った』と言っています、それは今回のラストで世界を救わないという選択をしたことを言っているのだと思うのですが、『天気の子』ではヒロインを助けます、それは東京に降り続ける雨を止めないことを選択したということ、その結果東京の一部が水没します。ここで東京を救わないという選択をしたことが『賛否両論のある作品』であり、この展開にしたことが『災害をなかったことにする』という言葉に対する回答なのだと思いました。

 

今回は世界を救わないという選択をした。とさきに書きましたが、そもそも世界の命運を一人の子供に託すということがおかしいのではないか?と自分は思います。僕らは『シン・ゴジラ』で観たはずです、世界の危機を救うのは解決するためのシステム、組織に組み込まれている人達が自分の責任を果たして、逃げずに立ち向かうことで解決しようとするところを。

 

であれば偶然選ばれた人=英雄、勇者に世界を救ってくれることを託すのではなく、世界を救いたいのであれば、自ら立ち上がって行動しなければいけないんだということを。だから『災害をなかったことにする』と言っている人達は『シン・ゴジラ』で言えば、国会議事堂の前で大声でなにも解決するための行動をせず大声でただ叫んでいる人たちと同じで、新海誠監督は解決しようと行動している官僚側の立場なんだと自分は思います。

 

つまり『災害をなかったことにする許しがたい物語』=声をあげるだけで行動していない人に対して、新海誠監督はやっている!物語をつくって人々に生きるにたる糧を届けているんですよ!だからこそのラストで御子の力を失っても人の幸せのために祈っているであろう陽奈を見て、帆高君ははっきりと宣言するんですよ。

 

「僕たちは、大丈夫だ」

 

 

陽奈ちゃんは祈っているんですよね、たぶん人のために祈っているんだと思うんです。なんで人のために祈れるのかっていうと、世界を愛しているからだと思うんですよね。新海誠監督の描く風景の描写ってものすごく綺麗で、この綺麗な景色のある世界に生まれきてよかった。と思えるくらいの景色だとも思うんですけど、でもそのなかで生きてる人たちは色々な葛藤を抱えていて、綺麗なことばかりじゃなくて、苦しいこともある。というように感じます。だから陽奈ちゃんもこの綺麗な景色のある世界に生まれてきてよかったと、綺麗なことばかりじゃなくて、苦しいこともある世界だけど、でも生まれてきてよかった、そんな世界に生きる人々が幸せに、笑顔になってくれるように祈っているんじゃないかな?と思うんです。

 

この祈りは陽奈の祈りでもあるけど、新海誠監督の祈りでもあると思うのです。自分は監督描く世界をみて、この世界に生まれてきてよかったと、こんなに素晴らしい映画を見せてくれる世界に生まれてきてよかったと思えます。幸せに、笑顔になれるんです。エンターテイメントにはそれだけの力があります。

 

これが、『災害をなかったことにしている』という言葉への回答。新海監督はそれでも人々の幸せや笑顔を祈っているんだと思いました。ではなぜ、世界を救わなかったのか?というと、それが僕らのやった結果なんだからだと思います。例えばこの物語が『シン・ゴジラ』であったならば、官僚がこの未曾有の大災害に対してなにか対策を講じる物語になるはずです。でも、『天気の子』ではそうなりません、3年間放置して、東京は水没してしまいます。やった対策と言えば住民の転居の手助けをしたくらいの描写しかされていません。後手に回った対策です。そして、誰もがその世界で普通に暮らしています。須賀さんの台詞

 

「世界なんてさ──どうせもともと狂ってんだから」 

 

 

狂っている世界だから今さらどう狂っても違いはないよね。ってことなんだと思います。だから3年間雨が降り続けるという状況に対してもなにもしない、また狂っているだけなんだから。という風に傍観して、たぶんここでも政府に対してはやく対処をしろと言っている人がいるんだと思うんです。言うだけでなにもしない人が。

 

つまり、世界を救わなかったのは帆高君でも、陽奈でもないんですよ。僕たち全員なんです。

 

だって世界の危機に対して傍観してなにもしなかったのはそこに生きる人たちも同様だったんだから。

 

だからこそ、なにかをした帆高君は「僕たちは、大丈夫だ」と宣言します。この愛する世界で生きる人たちのために祈れる、なにかをしてあげられる僕らは大丈夫だと。

 

帆高君は世界の形を決定的に変えてしまったことを自覚しています。でも、それは帆高君が特別な人間だったから世界を変えられた訳ではないんですよね、帆高君は一般的な中流層の人間だし、陽奈も同じく一般です。なにも特別なものは持っていません。でも帆高君と陽奈は世界の形を変えられたんです。なにも特別な人間ではなくても。そういう意味でも、帆高君は世界を変えられるということを知っているからこそ「僕たちは、大丈夫だ」というんだと思うんです。

 


小説版『天気の子』のあとがきに書かれているのですが

今作の発想のきっかけは、前作の映画『君の名は。』が僕たち制作者の想定を遥かに超えてヒットしてしまったことにあったと思う。……いやしかし「想定を超えてヒットしてしまった」なんて、なんとイヤラシイ書き方であろうか。でもそれは僕にとっては本当に桁違いだったのだ。『君の名は。』が公開されていた半年超の期間、あれだけ多くの視線、あれだけ多様な意見に晒されたのは、僕には初めての経験だった。家で食事をしているとテレビでいわゆる有名人が映画に意見していたり(なんだかディスられていた)、居酒屋で飲んでいても感想が聞こえてきたり(わりとディスられていた)、はたまた道を歩いている時でさえも映画の名前が聞こえてきたりした(やっぱりディスられていた)。SNSには膨大なコメントが溢れていて、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に怒ってらっしゃる方もずいぶん目撃した。僕としては、その人たちを怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ。 そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。それこそが僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られるのだとしたら、それはもう仕方がないじゃないか。僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。いささか遅すぎる決心だったのかもしれないけれど、『天気の子』はそういう気分のもとで書いた物語だった。

 

 

まさに今回の作品は教科書のような物語ではない、眉をひそめられしまうような密かな願いを描ききったのではないかと思います。


それにしても、今回の少年像は面白いなぁと思います。陽奈がお店に引き込まれるところで帆高が陽奈を助けだしたあと、廃墟で助け出した陽奈から言われるのは「気持ち悪い」なんですよね。これって例えば、勇者が剣(=銃)を拾って囚われの姫を助け出したら拒絶された。ということなんだと思うんですけど、ここで否定されるのって、それが暴力だからではないかなと思います。帆高君が家から飛び出してきた理由は謎ですが、勝手に妄想すると、島に居たくなくて東京に出たいと言ったら、バカなこと言ってるんじゃない!とか言われて、父親に殴られたんだと妄想するんですけど、それが嫌で飛び出してきたのに、自分がやったとこも銃=暴力で人を押さえつけることだった。そんな英雄きどり?だからヒロインに気持ち悪いって言われてしまったんだと思う。

 

二度目に銃を発砲するシーンは意思表示、天に発砲するのは怒りの表現。剣は手段であって、目的ではない。示威行為、武力による圧倒。武力は使わないことが重要。剣は自らの意思で捨てる、もう暴力で人を従いさせないという意思表示。いや、全然わからん・・・、ここはもっと考えないとな・・・。

 

今回社会的な規範を破ることが描写されていますが、これはいままでの作品を見ていると社会の大きなうねりによって引き裂かれる二人を描いてきたからなのかな?と思います。大きなうねりに抗うために規範を破って女の子を助けだす・・・のかなぁ?これは『きっと、うまくいく』を思い出しますね。

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しかし、こうなると次はいったいどんなテーマを描くのかが全然予想つかなくて、次があるなら楽しみだなー!