今日も一日健やかに物語を

おもしろいと思ったものを

『スタンドアップ!』春井安子著 どうして声をかけてくれたの?

 

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春井さんの物語は、ネガティブなことをつつみ隠さずに描きだしてて読んでいて感情にモロに伝わってくるんですよね、心にぐさぐさきます。そこが素晴らしくて良いなって思うところなんですよね。

 

娯楽を求めている人はこういった物語を求めていないと思うけれど、この物語を読むことで自分のこの感情は変なことではなくて他の誰かも感じている感情なんだと分かることで救いに人もいると思うんですよね。というか自分もこういった感情がわかるなぁと思いながら読んでいました。

 

 

では、どこが共感できるか?なんですが、寺野が根津原しのんに対して抱く気持ち、自分よりも優れていると思う相手に対する嫉妬心のようなもの。これ、丁度いまアニメでやっている『ランウェイで笑って』の6話、優越感と敗北感で描かれいるこころさんに対するみすずの気持ちを思い出すのですが、自分の得意なことで、自分よりとそんなに力量差がない相手にはこの嫉妬心を抱いてしまうのですが、これが全然実力が違う相手に対しては嫉妬心を抱くよりも尊敬とか、絶望感になるんですよね。この寺野が抱く嫉妬心は自分も仕事をしているときに抱くことがあるので、わかるなーって思うんですよね。

 

 

寺野ちゃんは内気で、性格的には谷川ニコさんの『わたしがモテないのはお前らが悪い!』のもこっちや『クズと眼鏡と文学少女(偽)』の女の子なんかを思い出すのですが、友達をつくろうと思ったときに、周りから『すごいね!』と相手からきてもらうことで友達をつくろうとしているんですよね。とすると、友達をつくるときに彼女が欲しているのは自分のことを誉めてくれる相手なのかな?と思うんです。そう考えるとラストで根津原ちゃんに言われた言葉は寺野ちゃんにとってものすごく重要な言葉になるんですよね。これは後述します。


あとは、自分よりうまくつくれてたっぽいことが嫌だったのもあると思います。自分の方が負けていた、劣っていたというふうに感じたときの羞恥の感情や嫉妬の感情がうまく押さえられないことはあるよね。そうだな、これって感情の制御がうまくできてない子の話なんだな。途中でやめてしまったり、自分の恐竜がBとなかよくしてて怒って壊してしまう。


恐竜、怪獣か。内なる感情を制御できないで発露してしまう。YUKIの唄にも確かありましたね。

 

それと、ヨルシカの楽曲『だから僕は音楽をやめた』にある歌詞で

 

化け物みたいな劣等感

 

という歌詞を思い出します。この曲はエイミーからエルマへ宛てた言葉を曲にしたものという設定だと思うのですが、エイミーの音楽にとり憑かれた自分よりも優れた曲の作り手に対して抱く気持ちを『化け物みたいな劣等感』と表現しているんだと思います。

https://youtu.be/KTZ-y85Erus

 

人からすごいね!などの誉められたことがほかにはなくて、その数少ない経験のなかで自分が自信をもって誉められるだろうと思っていることで人から「すごいね!」と言われて人からの注目を集めてみたい、賞賛されてみたいという気持ちは自分にも覚えがあるのでよくわかります。Twitterでいいねやリプライがつくと嬉しいですしね。

 

しかし、その得意なことで誰かに負ける悔しさと羞恥の気持ちを感じるのもわかります。寺野は根津原しのんが自分よりすごいものを作ったことを認められなかった。そして自分の恐竜を壊してしまうのは、自分の大事なものをとられたと感じたから。でも根津原は勝ち負けで作っていたのではなくて、自分以外にも恐竜が好きな人がいて嬉しいと思っていたんですよね。

 

だから寺野ちゃんの家に遊びにいけば怪獣の話ができるんだと信じていたし、そんなにも怪獣のことが好きだったから粘土?で作った恐竜が突然現れても怖がらずに受け入れられたんだと思うのです。それに対して寺野は根津原に対して抱いていた劣等感を恐竜を自分の作った恐竜が動くのを見せることで、勝った!と思いたくて、すごいと言われていたBよりも私の方がすごい!と感じるために家に呼んだんですね。

 

でも、自慢するつもりだった粘土の動く恐竜が根津原しのんになついているのを見て、寺野は怒りるんです。寺野からすれば根津原しのんはいまから屈服させる、いわば敵なんですよね、でもその敵になついてる恐竜を見て、いまから屈服させる敵になつくなんて!という恐竜に対する気持ち。それとすぐに恐竜とも友達になれるBへの嫉妬心や劣等感。私の友達(ティラノサウルス)をとらないでという気持ち。それらの気持ちが合わさってしまい、『化物ののような劣等感』が渦巻いて、感情が溢れだし、恐竜に対して気持ちをぶつけ、根津原しのんに対して気持ちをぶつけてしまったんですね。

 

ここまでしてしまうのは、寺野ちゃんが前の学校での友達ができたときの体験から来ていると思います。寺野は前の学校では自分が1番うまく恐竜を作り出すことができ、そのことで周りから凄いと言われることで友達をつくることが出来ていたんですね。そして、転校先の学校でも同じようにしようと思ったら自分よりもうまく恐竜をつくることができる子がいて、自分が1番になれなくなってしまい賞賛されるどころか、真似したの?って言われしまいます。

 

寺野ちゃんはいままでは自分が1番だったところから引きずり下ろされたから根津原しのんちゃんに敵意を抱くんですね。だから、マウントを取ろうとして、動く恐竜をみせることで自分のほうが凄いんだと見せつけようとしていた。

寺野ちゃんはそうすることでしか、上下の関係をつくることしか知らなかったんだと思うんです。

 

でも、しのんに言われた台詞である

 

「私は好きになったよ、だから今日遊ぼうと思ったの」

 

この言葉によって、『凄い』から友達ができるのではなくて『好き』だと思うことで友達ができるんだと寺野は知るんです。

 

人間関係は上下関係だけじゃないと。対等な関係ことが本当の友達なのだと。
本当の友達のエピソードは『鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』にある『学校のグループ内で渡しは最下層扱い。本当の友達がほしいです』を思い出します。これが友達というものの表現として、とてもわかりやすく、そしてそれに対する返答として『おみあげを渡しあう関係』というのがとてもいいなぁって思うんですよね。

 

鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋

■視点の話

今回の本を読んでいて気がついたのですが、春井さんの作品には客観的に観る視点が増えたように感じます。
Webで発表されいているものと、同人誌で出されている『六角形のチョコレート』からの作品からしか知らないのでもっと前にはそういう作品もあったのかもしれないのですが、『六角形のチョコレート』までの作品では自分がどう思っているか?に重きが置かれており、そこにはマクロの視点、自分という個人の感情に重きを置く作品であると感じられます。ですが、『六角形のチョコレート』で変わったと思うのは、この物語は一人の少年の旅行記なのですが、彼は周りの評価と自分の評価の食い違いに悩んで、その悩みから一旦離れるために一人旅に出ます。この一人旅というのは自分探しの旅に必然的になるようです、なぜなら自分一人しか居ないため、すべての行動を他人に合わせないでよくなります。しかし他人の考えや行動に乗れないということは、自分で考えたことを実行していかなければならないから、一人で自分のしたいことを考えるというプロセスを体験して自分のことを知るからみたいです。それには人と接するよりも強制的に一人になれる環境である自然を舞台にするほうがいいみたいですね。池辺葵さんの『ねぇ、ママ』にある『stand up』という作品を思い出します。これはニートの男との子が『死ぬまでにみたい絶景』という本を読んで、大自然を見に一人旅をするというエピソードなのですが、彼もまた大自然をみることでいきる気力を取り戻します。たぶん、自分の悩んでいることのその悩みの適応範囲が自然のスケール感を感じることで視点が変わるからなんだと思います。

ねぇ、ママ (A.L.C. DX)

『六角形のチョコレート』を描くことで、春井安子さんが次に進んだのだのかなと思いました。自分という主観と自分が他人からどう見えているのかという客観的な視点を得ることで自分とはどういう人間なのかなにがしたいのか?を描き出せるように思うんです。次の作品である『My sweet ラベンダー』で、自分という個の人生をどう使うか?というマクロ個人の視点とミクロ世の中の視点を描き出せているのだと思うのです。ちなみに『My sweetラベンダー』個人的にめっっっっっちゃ大好き!!なので是非読んでみてください!

 

kenkounauma.hatenablog.com

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いやぁ、ほんとに毎回素晴らしくて感動します。今作の『スタンドアップ!』は寺野に対して理想的な人物像である根津原しのんを描くことで寺野がいかに自己中心的な人間であるかを浮き彫りなります、がその叫びこそがこの作品で言いたいことなんだと思うんです。自分はこういう人間なんだ!と宣言することこそが。