今日も一日健やかに物語を

おもしろいと思ったものを

『アーヤと魔女』 宮崎吾郎監督 良い子として描かなかった主人公はなにを伝えたいのか

www.aya-and-the-witch.jp

TV版がやっているのを知らなかったんですけど、もともとはTVで放送していたし、劇場版は考えていなかったんですね。
序盤のアーヤが暮らす孤児院や、引き取られてからのテンポはなんだかテレビシリーズなのかな?と感じてたのはそういうことだったのか。

 

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こちらの動画での内容解説がわかりやすくていいなぁと思ったのでぜひ見てほしいんですけども、そのなかでなるほどなぁと思ったのは、「ジブリ作品は社会のカウンターを描いていた」という点。

では、この映画ではなにに対してのカウンターを描いているのか?を考えると、最近知ったのですがメリトクラシー(能力主義)って言葉なんですが、それについては岡田斗司夫さんが動画でマイケル・サンデル教授の本をわかりやすく解説されているので見てほしいです。

 

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いままでのジブリのキャラクター達は、正義観があって、能力を使って正しいことをする。つまりは良い子であれば周りは答えてくれる。といったことを表現してきたとすると、アーヤはその名前の由来の通りに人を操ることをすることはズルいとか良くないこととして表現されることが多いと思います。

それなのにアーヤはなんで人を操ることで自分の生活環境を良くしていく子供として描いているのか。これってメリトクラシーに繋がっているんじゃないか?と思うんですよね。

メリトクラシーwikiで調べると
『個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力が高い者が統治する社会を指す』

ja.m.wikipedia.org


とあります。アーヤはまだ子供で、大人と比べたら能力は低い者なわけですが、そんな能力の低い子供でも、大人を観察して、自分の思うとおりに操ることで、能力の高い者を能力の低い者が操ることができるということを示しているんじゃないか?と思うんですよね。(これって、会社でよくあることなんじゃないか?(苦笑)

アーヤは引き取られてからもそこの環境に適応するんじゃなくて、自分に引き込む。なにものかになるんじゃなくて、すでにアーヤであるから、アーヤのままで生きていくとそれは人に合わせるんじゃなくて、自分を変えないまま人と関わるということなんだ。

まぁ、でもこれって操る能力が高かったからその地位につけたのでは?という風にも言えるわけですが、メリトクラシーってようは、社会をよりよくする能力を持った人間の地位を向上するべきってことだと思うので、操る能力はそれに当てはまらないんじゃないかな?って思います。

ただ、人を操って得られるものは他人に依存しているので、自分が本当に欲しいものを見つけたときにはそれは通用しないよっていうことを伝えるために、ラストで母親が来たではないかな。『ヒメゴト』に出てくる永尾 未果子なんかも、人を操ること、支配することに快感を感じる人間だったけど、なぜそうやって支配するのか?を追求した結果どうすればいいのかが見えています。そうするとアーヤはなぜ人を操るのか?という点を追求していくのも楽しそうですね。

是非とも母親が来た後の話をテレビシリーズで描いてほしいなぁと思いますねー。


■最後に映画の感想を
宮崎吾郎監督の作品をちゃんと見たのってこの映画が初だったんですけども、すごく今後が楽しみだな!って思えました。今作、結構原作の通りに描かれているらしくて、だぶん作者が亡くなっているので大きな改変はできなかったんじゃないかなと思うんですが、その中で改変されている箇所がマンドレイクがデーモンじゃなくて、普通の怒ると怖いけど根はいい人な魔法使いになっていたり、母親がバンドをやっていたりしているんですが、そこが大変面白いところでした。バンドの曲がめっちゃよかった。ジブリ作品としてどうなの?っていうのはよくわからないんですけども、宮崎吾郎監督は偉大な父である宮崎駿監督の背中をみて育ってきたんだなっていうのがこの映画をみるとよくわかって、ジブリという場所で破天荒な大人達を見てきた吾郎監督が描く、破天荒な大人を描いた作品が見てみたいなーって思ったんですねー。

 

 

 

『響 -HIBIKI-』 ルールや価値観を決めたのは誰?

 

響 -HIBIKI-

原作漫画が面白かったなーという思い出と、ここ最近漫画原作の邦画が面白いという話を聞いていたので観てみました。

漫画を読んでいた当時、どこがおもしろかったのか?を考えた時って、彼女が自分を曲げないで行動しているからかなーと漠然と思っていたんですが、今回映画を見てもやっぱりそこが面白かった。

 

鮎喰響は高校1年生で、自分が悪くないと思ったときは、絶対に自分を曲げないで行動をするんですね。
喧嘩を売られたら、絶対にやり返す。暴力を振るわれたら暴力で返す。などなど。

で、ここでこの女の子だいぶ性格がヤバいなって思うし、社会に出たら絶対にうまくいかないだろうなと思ってしまう。映画でも、周りの大人は彼女の行動を諌めようとする。

だけど、響に殴られたほうは自分に非があったことを最終的には認めている。相手が女子高生という、自分よりも弱い存在だと思っているから、殴り返されないと思っているから、殴ったに過ぎないんですよね。

それ以外でも、響の価値観にそぐわない言葉は訂正したりする。

彼女は、自分の中にある価値観を大切にしている。

これは、最近読んだ漫画の『戦隊大失格』2巻のセリフ

「わからない、何が間違いで何が正しいのか、誰か教えてくれ」
「ずっと誰かの正しさに乗っかってしまっていた」
「でも、自分が正しいと信じています」

この、「ずっと誰かの正しさに乗っかってしまっていた」を読んだ瞬間に衝撃的だったんですよね。


そうか、ここ最近の漫画はこれを言いたかったのか!!って思ったからなんですよね。

 

響に出てくる鮎喰響以外の登場人物は、人生を生きていくなかで身に着けた、暗黙のルールに従って生きています。つまりは、自分で考えたルールではなくて、誰かがいつの間にか決めたルールを信じて、それに乗っかって生きている。

響は、そんなルールは誰が決めたの?私の価値観は私が決めるという意思をもって行動している。

 

これは、『踊る大捜査線』の青島も同じものを持っていることを彼の先輩刑事である和久さん(いかりや長介さん!)が指摘していて、その時の言葉が

あいつは心の中に自分だけの法律を持っている(うろ覚え・・・)

で、響も同じように心の中に自分だけのルール(法律)を持っているだと思います。


原作漫画を読んでいたときにこれに気が付かなかったのは、タイトルに 小説家になる方法 とあったからなんだと思います。この漫画は響が小説家になることがゴールなんだなと思っていたんですね。

だけど、今回映画のタイトルには 小説家になる方法 この部分がなくなって、ただの 響 だけになったことで、これが響という人間がどういう人間なのか?ということに着目して観れたことによって、気が付くことができました。

どうしても、響が素晴らしい感性の小説を生み出した天才小説家ということに目が行ってしまいがちですが、その才能があるから響は自分の価値観を貫き通しているわけではなくて、その才能がなくても貫き通しているはずです。だって、小説の出来をきにしてはいるけども、世間的な評価なんて気にしてませんし。

だけど、自分の小説が面白いかどうかは気になるし、友達もいらないとは思っていないところがいいなと思う。人間離れしている才能や、絶対に自分を曲げない強さがある一見人間離れしたなにかのように感じてしまうけども、人間の少女なんですね。

 

いま原作者が連載中している『龍と苺』もこの自分の中にあるルールを守っている女の子が主人公で、作者さんは理不尽なルールとか、なにげなく弱者を虐げる行動をとる人間を許さないんだなーって思います。

 

いやぁ、面白かったな。原作に忠実な映画化で、どこがこの作品の伝えたいところなのか?がはっきりと描かれている素晴らしい映画化でした。

 

 

『来る』2018 陰陽師対霊のバトルにテンションが爆上げ

来る

 

前にツイッターで見かけて、それが霊と陰陽師のバトルが面白い。というものだったんで、面白そう!と思ったので観てみました。

 

ホラー系の映画があんまり得意ではなくて、なぜその怪異が起きたのか?とか、なぜ狙われたのがその人だったのか?があまり説明がなく、そうではなくて、それを観てどれくらい怖かったのか?が重要視されている気がしているので、物語を観たいのでなかなかホラー系は見ないんですよね。

 

なので、陰陽師と霊のバトルが始まる後半部分までは、あまり面白いとは思わなかったです。なんでその怪異が生まれたのか?なんでその人が狙われたのか?が全く見えてこないのと、登場人物に対しての説明が足りないと感じたからですね。

 

登場人物たちなんですけど、結構ダメ人間が多くて(笑)、自分もこういうことをしないように気を付けないとなーと思いましたね・・・。

 

見終わったあとに調べたんですけど、原作小説があって、そちらでは怪異はぼぎわんという名があったり、怪異の生まれた理由とか、狙われた理由なんかも掘り下げてあるみたいですね。

 

 

面白いと感じた後半部分の陰陽師対霊のバトルは原作にはない、映画オリジナルの部分なんですね。そこが一番面白かった。
陰陽師の元に来る、警察官のお偉方。つまり、霊の存在が一般レベルでは隠されいてるけれど、国家の部分では認識されていて、それは国家が対処するレベルなのだというのがわかるシーンだったり。

霊を祓うために儀式の準備がされるんですけど、そのために全国各地から霊能力者が集められてきて、んでもその人たちはたどり着く前に交通事故にあったりして死んでしまうんですね。それを察知?した新幹線で移動中の霊能力者が

「やばいんちゃうか?」
「別れて動いたほうがええかもな」
「まぁ、誰か一人くらいは無事にたどり着けるやろ」

えっ、そんなにやばい霊だったの!?とかもあるんですけど、それよりもこのセリフがかっこよくって!(笑)

あとは、儀式の準備に現代の土木業の人が準備をしているところがあるんですけど、『シン・ゴジラ』をみてから仕事をしてる人間ってのが好きになったんですけど、この準備している人たちももしかしたら、霊に殺されてしまう可能性だってあるのに仕事をしているのがカッコいいし、あとあと、そうやって祭壇?って作るんだーっていうのもあって、面白かったですね!それと、ちょくちょく映る、楽しそうに写真を撮ってる女子高生たちはなんなんだろう?と思っていたんですけど、儀式が始まると巫女衣装に着替えて舞を踊っていて、あぁ、巫女だったのか!と、舞もかっこよかったなー。で、儀式が始まるとき「最初に酉が鳴く」っていうのも、おぉ、なんかかっこいいなってテンションが上がりましたよ。


後半部分の陰陽師対霊のバトルが最高によかったので、『東京レイヴンズ』『双星の陰陽師』とかの陰陽師バトルが好きな人はおすすめです。

『見えない目撃者』 あきらめず、行動すること。

見えない目撃者

 

ノラネコさんのブログで見かけてて、Amazonprimeで見れるみたいだったので観ました。

 

以下ネタバレです。

 

 


警察官任官間近の主人公は、非行少年の弟を迎えに行き、その帰り道によそ見運転が原因で事故を起こしてしまう。
その事故で主人公は失明してしまい、さらには弟を死なせてしまう。

事故から~年後、失明してしまった主人公は、警察官にはなれず、実家でライターの仕事をしながら生活をしていた。
弟の墓参りには未だにいけずにいた。

弟の墓参りの帰り道、車の中から助けを呼ぶ声を聞く。主人公は状況を確認し、誘拐であると考え少女を助けようとするが失敗。
すぐに、警察に行きその時の状況を事細かに説明をする。

最初は警察側は、発見者は目が見えないため信憑性のあることだとは信じていなかったが、彼女が元警察官であることと、見えなくても詳細に状況を説明することができることを知り、捜査を開始してみる。

主人公は誘拐から72時間が被害者が殺されるまでの平均時間であると知っており、一般人にできる範囲で被害者の行方を追う。
その際、犯人の車とぶつかった少年を見つけ、一緒に行動することに。

被害者の行方を追う中で、被害者が誘拐に至るまでの経緯を知っていく。

警察側でも捜査が進み、容疑者を特定する。容疑者宅に踏み込むと、睡眠薬の大量摂取による自殺ですでに死んでいた。
そして、同時に複数の少女の遺体が見つかる。少女たちは体の一部が欠損しており、鼻、口、耳、手がそれぞれ無くなっていた。

遺体の中には、主人公が追っていた少女はおらず、真犯人は別にいると考える。
警察側は、少年が貰った紙幣についていた指紋と自殺していた容疑者の指紋が一致したため、この事件は解決したものであるとして捜査を終了した。

主人公は被害者がまだ生きていると信じて行方を追っている最中、遺体で見つかった少女たちの特徴が一緒であることに気が付く。
家出少女であること、親が無関心であること、欠損部位が『六根清浄』と重なること。

これらの線で再び行方を追う。その中で過去にも『六根清浄』を元にした事件があり、その時の情報提供者が怪しいと気が付く。
捜査の途中で、協力してくれていた警察官が殉職してしまう。

主人公と少年も死にそうになりながらも、犯人を銃にて殺害。

こうして、事件は解決。


これは猟奇殺人の物語です、なので残酷な描写が入っているときがありその度にひえ~ってなりながら見てました。
劇中で、猟奇映像に興奮を覚える人が、こういった映像を観たことで自らも行ってしまう。
と言っているのですが、それを言ったらこの映画を見た人もそうなっちゃう可能性があるんじゃない?っていう、作品の矛盾?うーん、難しいな、なんかそこが面白いなぁと思いました。


■やっぱり自分の意志を貫ける人に憧れてしまう。
主人公は失明していて、目が見えないんですけど、事件を解決しようと色んな所に出歩いたり、自分の持てる力を使って行動していってて、相棒の少年が、あんたすごいよ!っていうシーンがあるんですけど、うんうん確かになぁと思いました。ちょっと関わっただけの人をそこまでして助けるのって本当にすごいことだと思う。っていう風に思えるのって、主人公がどうしてそこまでして他人を救おうと思えるのか?という動機がしっかりしているからなんだと思います。

主人公は警察官になろうとしていたということはもともと正義感のある人間というふうに見れるし、弟を自分の過失によって死なせてしまったという過去があり、自分がかかわってしまった相手に対して死なせたくないという想いがあったのだと考えられます。

だけど、動機がしっかりしているからと言って、行動ができるとは限りらないんですけど、主人公がクライマックスで犯人に捕まってしまったときも最後まであきらめずに、自分のもてるものを発揮して犯人と戦うんですよね。なぜ、そうできるのか?というと動機があったからではなくて、彼女だからそう出来たからというしかないんですけど・・・。でも、これを見ることで、どうすればこの絶望的な状況を生き抜くことができるのか?がわかるんですよね、それは、最後まであきらめずに、自分のもてるものを発揮することが大切なんですねぇ。

逆に考えると、救さまを待っていた少女たちが殺されてしまうのは、自分で行動せず助けてくれるのを待っているからだったのかもしれないなぁ。んー、でも彼女たちは親から逃げたという行動をしたとも言えるし、どうなんだろ・・・?


いやぁ、でもやっぱり残酷な状況を生き残るためには、自分のもてるものを出し切って挑むことなんだ。『進撃の巨人』『鬼滅の刃』『約束のネバーランド』『けものフレンズ』『ゴブリンスレイヤー』『ふかふかダンジョン攻略記』とかとかまぁなんでもいいんですけど、いまの時代は自分のもてるものを出し切ることで生き残る。でも、自分だけじゃくて助け合いながらってのいうのも大事なこと。なんだなぁ、ふむふむなるほど。

 

あ、でも 『黄金と片喰』は、カリスマ的な主人公で世界を生き残ってるのも面白いな。

 

 


久々に記事を書いたなぁ。最近はなにを考えて書けばいいのかがよくわからなくて書けずにいたんだけど、動機を考えたり、自分がどう読み取ったかとかをつらつらと書けばいいんだなぁ。

『天気の子』  愛にできることはまだあるんだ。だから僕たちは、大丈夫だ!

小説 天気の子 (角川文庫)

 

tenkinoko.com

この感想は個人の感想であって、これが正解だよ!って言いたい訳ではないです!

ネタバレもありますので注意を。

 


素晴らしかった、あまりにも素晴らしい。映画館で泣きそうになることはいままで結構あったけれども、まだ我慢することができてました。ですが、この映画を観てるときはもう我慢できずに泣いてしまった。なので、今回の記事はなぜ泣けたのか?を書いてみたいと思います。

 


まず新海監督のことを自分は『会えない苦しみ』を描いてる人であると思っています。『ほしのこえ』ではヒロインが男の子から物理的に離されて会えない話を、『雲の向こう約束の場所』ではヒロインが所在不明になり男の子が会えない話を、『猫と彼女』では猫と人間という越えられない壁があり会っているけど通じない話を、『秒速五センチメートル』ではヒロインと男の子が親の都合で離れて会えない話を、『星を追う子供』ではヒロインは生きてて男の子が死んでいてもう二度と会えない話を、『君の名は』ではヒロインがすでに死んでいて会えないという話を。

 

そして今作『天気の子』では一体どういった会えない苦しみを描くのだろう?とワクワクしながら観てました。それと新海誠さんの作品の共通点として幸せな日常を過ごしているほどその後の不幸が待っているとも思っているので、帆高くんと陽奈さんが幸せであれば幸せであるほどこのあとどんなしっぺ返しが待っているんや~とドキドキもしながら見ていました(笑) 

 

でも、天気の子は『会えない苦しみ』が主眼ではないんだなと見終わったいまだとそう感じます。なぜならもうそこはすでに過去の問いかけでありその先を描いているからです。

 

その先とは『会えないって言ってない会いにいけよ!』ってことです。劇中のラストで須賀さんが帆高くんに

 

「お前もしょうもないことグズグズ考えてねえで、早くあの子に会いに行けよ。あの日以来会ってないって、今までいったいなにしてたんだよ?」

 

 

というんですよね。上で自分は新海さんは『会えない苦しみ』を描いている。と書きました、だからこの須賀さんの台詞を聞いて

 

それを新海さんが言うのかよ!?

 

と吃驚したんですよ。いままでずーーっと会えない男女を描いてたのに、帆高君は陽奈さんに会いに行くじゃないですか! 自分はここでもう感動の感情が溢れて涙が我慢できずに止まりませんでした。いままでの作品では会えない終わりかたを描いていたのに、『君の名は』でとうとう最後に二人は会えたという終わりかたをしていました。この時点ではこれが新海さんの気の迷いだったとも、エンタメに寄ったともまだこの時点では言えたと思うんです。でもですね、今作でも会えた。もう二作も続いて会えるという作品を描いたのだとすれば、新海監督は意識してこれを描いているんだと思います。ということはですね、

 

会えないとか言ってないで、会いに行くんだよ!

 

と言うことを肯定的に捉えているんだと思うんです、ついに、ついに新海誠監督はさきに進んだんだ!!(なに言っているんだ)
2000年代のギャルゲーのようだとか、監督が戻ってきたということではなくて、むしろ監督はさきに進んでいると自分は感じました。

全く関係なかもしれないけれど、宮崎駿監督が『風立ちぬ』で少年の物語を堂々と描いたことで庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』を、新海誠監督が『天気の子』を描けたのかもしれないと思うと、なんというか繋がりを感じて感動するなぁ。

 

風立ちぬ [DVD]

シン・ゴジラ

 

いままでの映画が、自意識の檻に捕らわれている人間を描いていたのは、それがこの世界の美しさでもあり、残酷さでもあるところに魅力を感じていたのだと思います。だから美しくも残酷である世界を、それを人間の心理描写として大切な人に『会えない』物語を描いていた。

 

この心理が変わったのが『君の名は』の前に日本を襲った大災害である3.11だったのではないかな?と思います。会えないって言ってて本当に会わないでいると突然居なくなることが現実にはあるんだよということを強烈に感じたのではないか?と思います。

 

君の名は。

 

この災害後に描かれる特徴的な映画庵野監督の『シン・ゴジラ』と新海監督の『君の名は』。『シン・ゴジラ』ではこの未曾有の災害に日本人である政治家たちやその下部組織である自衛隊や消防隊員や普通の会社員などが自らの役割を果たすために必死に仕事をし、災害への対処の理想図を描き。『君の名は』でも災害が起きることに対し、みんなで協力しあいながら災害への対処の仕方を描きました。ですが『天気の子』のパンフレットにある新海監督のパンフレットに書かれていたのですが『災害をなかったことにする許しがたい物語』と、評されたことがあったそうです、さきに書いたように『シン・ゴジラ』も『君の名は』も災害が起きたときの理想的な対処の方法を描いた映画であり、むしろちゃんと災害が起きたときのことを直視していると自分は思います。

 

新海監督は今回の『天気の子』で『賛否両論がある作品を作った』と言っています、それは今回のラストで世界を救わないという選択をしたことを言っているのだと思うのですが、『天気の子』ではヒロインを助けます、それは東京に降り続ける雨を止めないことを選択したということ、その結果東京の一部が水没します。ここで東京を救わないという選択をしたことが『賛否両論のある作品』であり、この展開にしたことが『災害をなかったことにする』という言葉に対する回答なのだと思いました。

 

今回は世界を救わないという選択をした。とさきに書きましたが、そもそも世界の命運を一人の子供に託すということがおかしいのではないか?と自分は思います。僕らは『シン・ゴジラ』で観たはずです、世界の危機を救うのは解決するためのシステム、組織に組み込まれている人達が自分の責任を果たして、逃げずに立ち向かうことで解決しようとするところを。

 

であれば偶然選ばれた人=英雄、勇者に世界を救ってくれることを託すのではなく、世界を救いたいのであれば、自ら立ち上がって行動しなければいけないんだということを。だから『災害をなかったことにする』と言っている人達は『シン・ゴジラ』で言えば、国会議事堂の前で大声でなにも解決するための行動をせず大声でただ叫んでいる人たちと同じで、新海誠監督は解決しようと行動している官僚側の立場なんだと自分は思います。

 

つまり『災害をなかったことにする許しがたい物語』=声をあげるだけで行動していない人に対して、新海誠監督はやっている!物語をつくって人々に生きるにたる糧を届けているんですよ!だからこそのラストで御子の力を失っても人の幸せのために祈っているであろう陽奈を見て、帆高君ははっきりと宣言するんですよ。

 

「僕たちは、大丈夫だ」

 

 

陽奈ちゃんは祈っているんですよね、たぶん人のために祈っているんだと思うんです。なんで人のために祈れるのかっていうと、世界を愛しているからだと思うんですよね。新海誠監督の描く風景の描写ってものすごく綺麗で、この綺麗な景色のある世界に生まれきてよかった。と思えるくらいの景色だとも思うんですけど、でもそのなかで生きてる人たちは色々な葛藤を抱えていて、綺麗なことばかりじゃなくて、苦しいこともある。というように感じます。だから陽奈ちゃんもこの綺麗な景色のある世界に生まれてきてよかったと、綺麗なことばかりじゃなくて、苦しいこともある世界だけど、でも生まれてきてよかった、そんな世界に生きる人々が幸せに、笑顔になってくれるように祈っているんじゃないかな?と思うんです。

 

この祈りは陽奈の祈りでもあるけど、新海誠監督の祈りでもあると思うのです。自分は監督描く世界をみて、この世界に生まれてきてよかったと、こんなに素晴らしい映画を見せてくれる世界に生まれてきてよかったと思えます。幸せに、笑顔になれるんです。エンターテイメントにはそれだけの力があります。

 

これが、『災害をなかったことにしている』という言葉への回答。新海監督はそれでも人々の幸せや笑顔を祈っているんだと思いました。ではなぜ、世界を救わなかったのか?というと、それが僕らのやった結果なんだからだと思います。例えばこの物語が『シン・ゴジラ』であったならば、官僚がこの未曾有の大災害に対してなにか対策を講じる物語になるはずです。でも、『天気の子』ではそうなりません、3年間放置して、東京は水没してしまいます。やった対策と言えば住民の転居の手助けをしたくらいの描写しかされていません。後手に回った対策です。そして、誰もがその世界で普通に暮らしています。須賀さんの台詞

 

「世界なんてさ──どうせもともと狂ってんだから」 

 

 

狂っている世界だから今さらどう狂っても違いはないよね。ってことなんだと思います。だから3年間雨が降り続けるという状況に対してもなにもしない、また狂っているだけなんだから。という風に傍観して、たぶんここでも政府に対してはやく対処をしろと言っている人がいるんだと思うんです。言うだけでなにもしない人が。

 

つまり、世界を救わなかったのは帆高君でも、陽奈でもないんですよ。僕たち全員なんです。

 

だって世界の危機に対して傍観してなにもしなかったのはそこに生きる人たちも同様だったんだから。

 

だからこそ、なにかをした帆高君は「僕たちは、大丈夫だ」と宣言します。この愛する世界で生きる人たちのために祈れる、なにかをしてあげられる僕らは大丈夫だと。

 

帆高君は世界の形を決定的に変えてしまったことを自覚しています。でも、それは帆高君が特別な人間だったから世界を変えられた訳ではないんですよね、帆高君は一般的な中流層の人間だし、陽奈も同じく一般です。なにも特別なものは持っていません。でも帆高君と陽奈は世界の形を変えられたんです。なにも特別な人間ではなくても。そういう意味でも、帆高君は世界を変えられるということを知っているからこそ「僕たちは、大丈夫だ」というんだと思うんです。

 


小説版『天気の子』のあとがきに書かれているのですが

今作の発想のきっかけは、前作の映画『君の名は。』が僕たち制作者の想定を遥かに超えてヒットしてしまったことにあったと思う。……いやしかし「想定を超えてヒットしてしまった」なんて、なんとイヤラシイ書き方であろうか。でもそれは僕にとっては本当に桁違いだったのだ。『君の名は。』が公開されていた半年超の期間、あれだけ多くの視線、あれだけ多様な意見に晒されたのは、僕には初めての経験だった。家で食事をしているとテレビでいわゆる有名人が映画に意見していたり(なんだかディスられていた)、居酒屋で飲んでいても感想が聞こえてきたり(わりとディスられていた)、はたまた道を歩いている時でさえも映画の名前が聞こえてきたりした(やっぱりディスられていた)。SNSには膨大なコメントが溢れていて、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に怒ってらっしゃる方もずいぶん目撃した。僕としては、その人たちを怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ。 そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。それこそが僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られるのだとしたら、それはもう仕方がないじゃないか。僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。いささか遅すぎる決心だったのかもしれないけれど、『天気の子』はそういう気分のもとで書いた物語だった。

 

 

まさに今回の作品は教科書のような物語ではない、眉をひそめられしまうような密かな願いを描ききったのではないかと思います。


それにしても、今回の少年像は面白いなぁと思います。陽奈がお店に引き込まれるところで帆高が陽奈を助けだしたあと、廃墟で助け出した陽奈から言われるのは「気持ち悪い」なんですよね。これって例えば、勇者が剣(=銃)を拾って囚われの姫を助け出したら拒絶された。ということなんだと思うんですけど、ここで否定されるのって、それが暴力だからではないかなと思います。帆高君が家から飛び出してきた理由は謎ですが、勝手に妄想すると、島に居たくなくて東京に出たいと言ったら、バカなこと言ってるんじゃない!とか言われて、父親に殴られたんだと妄想するんですけど、それが嫌で飛び出してきたのに、自分がやったとこも銃=暴力で人を押さえつけることだった。そんな英雄きどり?だからヒロインに気持ち悪いって言われてしまったんだと思う。

 

二度目に銃を発砲するシーンは意思表示、天に発砲するのは怒りの表現。剣は手段であって、目的ではない。示威行為、武力による圧倒。武力は使わないことが重要。剣は自らの意思で捨てる、もう暴力で人を従いさせないという意思表示。いや、全然わからん・・・、ここはもっと考えないとな・・・。

 

今回社会的な規範を破ることが描写されていますが、これはいままでの作品を見ていると社会の大きなうねりによって引き裂かれる二人を描いてきたからなのかな?と思います。大きなうねりに抗うために規範を破って女の子を助けだす・・・のかなぁ?これは『きっと、うまくいく』を思い出しますね。

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しかし、こうなると次はいったいどんなテーマを描くのかが全然予想つかなくて、次があるなら楽しみだなー!

 

『響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』 その先になにが待つのか、楽しみじゃない?

 

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観ていて現代日本の文脈を感じる素晴らしい作品でした。
現代的な疑問としての『頑張った先になにがあるの?』というテーマを扱っていてとても良かったなーと思う。

日常ものがたくさんあった時代にあった、疑問だったのだと思う。だから『けいおん』のような頑張らないで、いまこの瞬間を友達を楽しむ。というものが人気であったのだと思う。でもいつまでも成長しないのはどうなんだ?という疑問もあったのではないだろうか?

それが『よりもい』で描かれたように、南極に頑張って行く少女たちが描かれて、頑張っていても友達をつくることが可能で、やっぱりきらきら輝くためには頑張っている時なんだという風に感じたのではないかな?

だから『誓いのフィナーレ』では頑張って、上手くなりたい。というただそれだけの理由が動機という。でもそれになんの意味があるの?という疑問に答えを出していて、それは悔しいと思えるほどやることでそれは自分はやりきった、やったんだという自信に繋がるといっているんだと思うのだ。自信のない、自己承認出来ていない人生が嫌で、人は異世界に転生したくなるみたいですしね。

だから、自己承認ができる自分をつくる、人生を充実して生きるために、好きなことを頑張るれるんじゃないかな?

色々と下に書きましたけど、言いたいことはこんな感じですね。


ここからはネタバレありです。

 


キャラごとに思ったことを書いていくと。

緑と月島は、月島の即落ち2コマ

れいなと久美子は久美子が抱える問題には手を貸せないので今回は関わりが少な目な印象。
れいなを頼る場面は今後3年になったら実力になやんで、己をちゃんともって立っているれいなを見て、自分のことを見つめ直すことができる存在だと思う。

修一と久美子。久美子が1年の後輩と修一が仲良くなっているというのを見てモヤモヤしているところから久美子も修一のことは好きなんだなと見てとれる。

それと、修一が大人だなぁ、と思ってしまった。以外と無欲の人間なのかな、と思っていた修一が久美子にキスをしようとするシーンはあぁ、ほんとに久美子が好きなんだ、と感じられるシーンでした。その優しさに久美子は甘えたのだと思う。

これは久美子は修一が自分選ぶのだという自信を持っている。修一なら自分を選んでくれると思っているから久美子は一旦わかれようと切り出す。そしてその修一はおそらくそんな久美子の気持ちを汲み取っているのだと思う。だからすんなりと受け入れたのだろう。普通のカップルならもっと引き留めるのではないだろうか?

それをあっさりと受け止めた修一はとても大人で、久美子はズルいなーと思う(笑) 3年になったらどうなるかなー。

ただ、久美子が一旦別れようと言うのはなるほどなぁと思いました。ユーフォは楽器を演奏するときによく考えてとか、精神の状態によって演奏の質が変わるというような描写が出てきたように思うのですが、そう考えると、これから忙しくなる久美子が修一のことを考える余裕が無くなる可能性があると考えると、別れるという選択をとったのだと思います。


久石 奏と久美子。

この、奏が問いかける、頑張ってどうするんですか?という疑問はとても素晴らしいなぁと思った。

これは久美子が中学生の頃に感じて、でもそれをれいなが否定する。これは1期の話だったかな、物語三昧で語られている文脈を参考にして考えると、『けいおん!』で描かれた、あずにゃんは、ぬるい場所で平凡に生きていくか、それともプロを目指して成長をするか?という問に『けいおん!』では友達との平凡な毎日を選んだんですね。これは時代的に努力して勝ち残っていくのに疲れた、高度経済成長が終わって、努力してもその先にに待つのは成長の見込めない、奴隷のように働かされる未来しか待っていないのだから、成長するよりも、友達と穏やかに過ごしていくことが幸せだよねという結論がだされたのだと言える。

そして、じゃあ友達とわいわいやるのが楽しいってことは、友達ががいないと人生楽しくないの?つまりリア充と呼ばれている人間になるしかないの?という疑問があって、『僕は友達が少ない』や『やはり、俺の青春ラブコメは間違っている』という作品が出てきたのだと思います。はがないの結論は彼女はいらないから友達が欲しいという結論になり、俺がいるではリア充だって苦労していて、むしろ非リア充のほうがうらやましいよ、とリア充側から言われるという、結果陽キャも影キャもどっちも苦労があるよ、という結論に至りました。でも、ここで発見したのは自分の趣味をやっているときに同じことをしている友達がいるのは楽しいよね、ということはかわらないということは残ったんですね。

それが最近になって、『宇宙よりも遠い場所』で目的をもって、さらに友達との関係性を深めることが人生に充実をもたらしてくれるのだという、どちらも大切なのではないか?という風な結論がだされました。

とすると、ではどうすれば目的を見失わずに生きていけるのか?モチベーションを維持できるのか?という疑問が出てきたのではないのかな?と思う、だから今回の映画では頑張ってどうするんですか?なぜ頑張れるんですか?という問に答えを求めたのだ。この問にたいして、ユーフォで出された回答は、久美子が語る言葉から自分は

その先に何が待っているかわからないけど、先になにが待っているのかわからないからこそワクワクして頑張ろうと思えるのだ。

と言っているのだと感じました。

これは、答えとしては不正確であやふやだと思うですが、でもいまの時代仕事を頑張ったからと言ってその先に待つのは過労死じゃん。というふうに思うのですね、だけど趣味や、好きなことだったら頑張ったその先になにが待っているのかがわからないからこそ頑張るというのはなんとなく受け入れられるなぁと思う。これの違いは内発性の問題、好きなことをやるときに理由はないだろう?と自分は感じる、仕事だと頑張ろうと思わないとできない。

仕事ではその先に待つのは勝ち負けの世界、つまりそこには勝者と敗者がいる勝負の世界。

趣味だとその先に待つのは、自分が納得できる自分になる未来。

たどり着く場所が違うのかもしれないなぁとふと思った、そう考えると他人よりもうまくならないと意味がないということではなく、自分の人生を充実して生きれたか、という悔いのない人生を歩むことが重要なんだと言っているのかな。

今回のコンクールですが、金賞をもらえたけど全国へは行けなかったという結果に終わりました。これは上で書いた、結果よりも自分が納得できることが大切だ。ということを言っているのであれば、ここで全国に行けてしまったら

「やっぱり、勝たないと頑張ることに意味がない」

ということになってしまいますよね。だから今回のコンクールは全国に行けなかったという結果は

勝たなくても、自分で納得できる結果が出せたらそれでいい。

ということを言っているのだと感じました。

この、自分で納得できる結果を出すために頑張るというスタンスは、先日引退された、元メジャーリーガーのイチロー選手や、いまも現役で活躍されているプロゲーマーのウメハラさんなどを思い出します。

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あとは鴻上尚史さんのこちらの記事とかも

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こちらも

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けいおん!』のような日常ものから、『よりもい』のような日常と目的を両立するようなものを経て、『誓いのフィナーレ』では目的を目指すとき、どうすればモチベーションを維持できるのか?という流れがみえたような気がして、とても素晴らしい映画体験でした。


いやぁ、他だとあの動画を撮っているシーンとかもなるほどなぁって感じでした。あのシーンにはどういう意味があったんだろうと思ってたんですが『ノラネコの呑んで観るシネマ』の記事を読んでなるほどと。

noraneko22.blog29.fc2.com

 

いやぁ、面白かったなぁ。今度はリズを見直してからいきたいなぁ、希美とみぞれが写るシーンがちょくちょくあったり、コンクールのところなんかもはや主人公よりも写ってたよね?

あ、あとね!久美子3年生編とか絶対ヤバイと思う!だって、これだけ成長した久美子が引っ張るんだぜ!?もうなんか伝説でもつくっちゃうんじゃないの!?

『パッドマン 五億人の女性を救った男』

ネタバレと映画を観た程度の知識で語っているので注意。

 

www.padman.jp

こちらの映画がとても素晴らしかった。女性用のナプキンが浸透していないインドでは生理の時使われるのが清潔とは言えない布を使用し、それが病気の原因となることもあったそうなのだ。しかしインドで販売されているナプキンは高額でなかなか一般の人は買うことはなく、布をしようしていたそうです。2001年のインドが舞台なのですが、ナプキンを使用している女性は全体で10%程度だったそうです。

 

妻を愛する男ラクシュミがこのナプキンがどんな構造をしていて、なぜ高額なのかを知っていく過程が、観客である自分もそうなのか!となり面白かった。

そしてラクシュミはナプキンを安価に製造することができ、とある女性の協力者のおかげもあり、インドでナプキンを広めることができたみたいです。

ここで凄いのがインドの働く口がない女性は収入を夫に頼るしかなく、そのために夫から暴力をふるわれても逃げることができずに我慢するしかなかったようです。それをラクシュミはナプキンの普及率を上げるために女性が作って女性が販売することにし、そこで働く口がない女性を雇いました。

これすごいですよね、まさか妻のためにつくったナプキンがこのような社会を変える発明になるなんて観ていて思いませんでした。

そしてその発明が認められて国連でスピーチする機会を得たラクシュミですが、彼はそこで母国語であるヒンディー語ではなく英語でスピーチするんです。

ですが彼は決して英会話ができるレベルの語学力はないんです。

ならどうやってスピーチしたかと言うと単語のみを使用してスピーチしたんです。日本語的に解釈するなら「わたし 安価 ナプキン 作った」みたいな感じだと思います。

こんな英語力でスピーチできるでしょうか普通?自分だったら恥ずかしくてできないと思います。ですがラクシュミがこんなカタコトの英語でスピーチしたのは稚拙でもやることが大切なんだ、単語でも組み合わせることで伝わる、完全にしなくていいんだというようなことを伝えたいのだと思うんです。

ラクシュミは学者でもなんでもない町工場の一般人、でも工夫しだいで世界は変えられるというふうに自分はこの映画を観て感じました。

 

とても面白かったこちらの映画、インドの文化を知るきっかけにもなるのでとてもオススメです。