今日も一日健やかに物語を

おもしろいと思ったものを

『MOMO』 板路 夕著 痛いけれど、忘れたくない

 

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1人の少女が『百日荘』という集合住宅に迷いこむ、ひと夏の少し不思議な体験。劇中のなかで様々な本が描かれているのですが、そのラインナップがどれも幻想や空想世界の物語で、この作品を読んでいるときに感じていた幻想的な印象が劇中にでてくる本のような世界につれていってくれる感じがしました。

 

フミは夏期休暇に入り、父が単身赴任で家にいないため叔母の家がフミの帰る場所なのだけど、帰ることが出来ずにいた。帰ることができずにいた間の時間を埋めるため、図書館でバイトをしていたその帰りにフミは『百日荘』という集合住宅に迷いこむ。

 

そこにはモモという自分と同じくらいの年齢の少女がおり、そのモモから「あのね、わたしと ともだちになってくれる?」と言われ・・・。

 


フミはモモと出会ったことで痛いことはつらいことで、その記憶をなかったことにしたほうが幸せなのでは?ということに対してそうではない記憶もあるということに気がつくんですね。フミは幼い頃にモモと出会っていて、しかしその頃のフミは母が家から出て行ってしまい、その寂しさ、孤独感をモモは忘れさせてあげようとしたと打ち明けます。ですが、フミがそのことに対し

 

「寂しさが消えることは この手をはなすことと同じだと思うから」

 

寂しさ、孤独感を忘れさせるということは、モモと出会った記憶、つまりモモとの楽しい思い出も一緒に消えてしまうことなんですね。それは「なかったこと」になってしまう、モモと別れてしまって寂しいという風に感じた感情すらもフミは愛おしいんだ、ということなんだと思ういんですよ。これは『よあけのヴェイパー』のお姉さんがあの人の記憶がつらいものだけど、あのときは楽しかったんだということに気がつくのに似ていますね。

 

タビと道づれ』でたびたび使われる「優しい痛み」と言う言葉があるのですが、これは生きていると様々な刺激=痛みを受けるけど、それを楽しい刺激=優しい痛み に出会うために行動できるか?ということでした。

 

フミが母やモモと別れたことは寂しいこと、でも寂しいというのは裏をかえせば寂しく感じるほど相手のことが好きだったということなんですよね、だから寂しいという感情は=相手のことを好きということで、それが消えるということは好きだったことも消えてしまうということなんだと思うんです。 だからフミは寂しいけれど消えてしまうのはもっと悲しいから、別れてしまうけれど、そう感じる気持ちを大切に持っておきたいから、寂しさを持っていかないでというんだと思うのです。

 

『メッセージ』で娘が将来病気で死んでしまうこと、夫と娘の病気が原因で別れてしまうことを予知してしまった主人公が、それでもその未来を受け入れて、夫と一緒なることを選ぶし、子供を産むことを選ぶのですが、これってなぜそんな選択ができたのかというと、それもまた『愛』だからなんですね。夫と別れてしまって悲しいと想えること、娘が死んでしまうことで自分が絶望してしまうことをすべて受け入れて包み込む愛なんですね。

 

だからフミがモモとの別れを受け入れられるのは『愛』しているからなんだと思うんです。

 

モモは自分の存在が幽霊であると言っているけれど、でも本当は死んでもいなし、そもそも産まれてもいない、そして誰からも認識されないことを悩んでいました。

 

ですが、たった一人そのモモを愛してくれるひとが居るんですよ。それって、それだけで幸せじゃないか?と思うんですよ。

 

『天気の子』で帆高くんが陽菜を無我夢中で助けようとする姿をみて、おっさんの刑事が「そこまでして会いたい子がいるってのは、わたしなんかにゃ、なんだか羨ましい気もしますな」と言うように。『私に天使が舞い降りた!』の劇中劇『天使のまなざし』で永遠を生きるアネモネがその役目をやめてデイジーに会いにいくのも、愛しているからですよね。

 

なんのために存在しているかもわからない、存在理由のないモモのことを愛してくれたフミが居た。それだけで存在したことに足ると思うんです、だって人生とは好きなものを見つける旅なんだと思うからです。


ラストでフミが駅員さんに言う

 

「だいじょうぶ 歩いていけそうです」

 

このフミの台詞って次のページの

 

じょうずに進めるかはわからない

それでも わたしは

あなたの不在を抱いて歩く

 


フミはモモとの別れを、寂しい思い出を忘れることなく、胸に抱いて歩いていくことを決意していることがわかります。だから駅員さんにいう台詞「だいじょうぶ 歩いていけそうです」は海まで行くのにバスを使わなくてもいいということとは別に、モモがいなくても、この思い出があるから

 

「だいじょうぶ 歩いていけそうです」と言っているんだ。

 

このモノローグを見たあとに「だいじょうぶ 歩いていけそうです」と言ってるフミの顔をみると、泣きそうなのをこらえて頑張って笑っているようにしか見えなくて、もうその表情の素晴らしさたるや・・・。

 

この世界は寂しいことがあるけれども、それは寂しいと思えるくらい愛おしいということなんだ。


あぁ、そうか!板路さんの作品群は『無くなっても無くならないもの』を描いてるのかな!? 

 

『DEPT』は人間だけの世界じゃなくなっても、普通の日常は続けられることが『無くなっても無くならないもの』、『明るい水槽 -彼女についての覚書-』では姉と慕っていたラジオが動かなくなってしまっても、ラジオから受け取った世界を大事に持ち続けていることが、『手島さんの墓』では手島さんはバレェを続けられなくなってしまったけど、そこまで続けてきたことをコトヒラさんに祝福して貰えたことで、彼女の人生がなくなったことにはならなくなったことが、『よあけのヴェイパー』ではお姉さんのあの人と想いが通じ合わなかったけど、そこまでの思い出と気持ちは無駄ではなかったことが。

 

『無くなっても無くならないもの』は、それこそが本当に大事なものなんだってことを描いているんじゃないか?と思うんです!!

 


■劇中で描かれる様々な幻想的な表現

板路夕さんの作品を読んでいると色々な本を読まれているのだろうな、と連想できる台詞があったりしていたのですが、こちらの本のなかで色々な本が登場していて、しかもそれが自分が全然知らない本だったので調べてみたのですが、どれもが幻想の世界の物語なんですね。(たぶん・・・) 

 

板路さんの作品群ではたびたび幻想的な表現が使われていて、板路さんの作品がそういった世界を描くのはこういった読書体験からきているのかなと想像してました。今作で言うと例えば

 

「雲のなかで電気が動いてる」とか「青い灯りが交流してる」とかですね。(あげたらキリがないのでとりあえず厳選してこの二つを・・・!)

こういった表現が板路さんの作品を読んでいると幻想の世界に入り込める素晴らしい表現になっていて良いんです!!