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『らっことかわうそ (後)』 春井安子著 伝えることの難しさの葛藤と苦悩、それが美しい

 

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 前編の記事はこちら

kenkounauma.hatenablog.com

 

読んでるあいだずっと胃がキリキリと締めつけられていました。

 

前編では岸本嵐子(らっこ)が、河浦颯子(かわうそ)のことを好きだと自覚するところで、物語は後編に続きます。この流れを観たとき、いまの百合漫画に慣れきった自分はらっこがかわうそに告白してハッピーエンドだな!と楽観的に思っていたのですが・・・。後編を読んで数ページでらっこが、かわうそから距離を置いてるという展開になっているんですよね・・・・。もう開始数ページでえ、、、つら、、、(泣)
ってなってて、でもやっぱり春井安子さんの漫画はこれでこそだよな・・・。とも思いながら、らっことかわうそがたどり着く先がどんな結末でも受けとめる覚悟で(つまりはバットエンドを予感していたんですね)いました。

 

この本がどんな結末を迎えるにしても受け入れるぞと思っていたのでラストまでたどり着いて、二人がついに踏み出せて、その想いを彼女達が伝えられて本当に良かった···! 後編の序盤からラストまでの流れが、らっこのモノローグが、もう素晴らしすぎて!なんとも美しくて、この美しさって人間という存在の、自分と他人は違う人間だからこそ、気持ちが伝えられないとか、相手がどう思うかわからないとか、そういった、どうしようもないことに苦しみ、悩むことってあると思うんです。でも、それが人間なんですよね。それはどうしようもないことなんです。そのどうしようもなさがあることを受け入れて、そのことを、考えて、考えて、考えて出てきた言葉なんだろうなと感じられるから、美しいんだと思うんです。

 


■女の子が女の子を好きになるということ


前編でらっこがかわうそに恋心を抱いていると自覚したにも関わらず、相手に近づくどころか避けて離れるという行動をとります。なぜこのような行動をとってしまうのかを考えると、らっこの性格が起因しているのだと思うのです。

 

後編で、らっこは転校にともなう人間関係の変化に適応するために、人見知りの自分を偽って、明るく振る舞うことで新しい人間関係のなかに溶け込んでいった。それがわかってから前編を読み直すとことあるごとのシーンがそうにしか見えなくて、例えばらっことかわうそが転校初日に自己紹介しているとき、かわうそが人見知りのようにみえたらっこの顔が、この子も私と同じなんだと思っているようにみえるし、学校での友達との会話もうわべだけで喋っているようにみえます。

 

えっとですね、前回の記事で自分もらっこが明るい性格なんだという風に騙されているわけですが、でも春井安子さんの『星炉病棟』のクーヤのようだと言ってて、クーヤは周りと合わせるのが得意な男の子で、でもその変わり誰とも本心の会話をしたことがない子だったんですね。最近読んでる『レジェンダリ・ヴァルキュリス』のなかで

 

『触れようとすれば離れ、離れようとすれば寄って来る子犬みたいな奴だと笑った彼は、それは彼女が自分と同じく異性慣れしていないからだと理解する』

 

この子犬みたいなというのがものすごく的確だなと思ったんです。知らないから怖くて近寄れなくて、でも興味はあるから離れられない。この例えが『星炉病棟』のクーヤと『らっことかわうそ』の岸本嵐子にも当てはまるんですよね。らっこも周りと合わせることが巧くできてしまって、そうやってきたから、自分が思っていることを言葉にして伝えた経験がなくて、言葉にしたらどういう反応が返ってくのかという体験をしたことがないから、どう伝えればいいのか?がわからないんですね。

 

らっこの姉との会話で言われる

 

「怖がりの私たちは 誰かが自分の話してくれるの待ってる」

 

この言葉に自分はすごくハッとして、そうか、らっこはそういう子だったのかと納得したんです。上で書いてきたことはこの言葉をベースにしています。

 

らっこが人とのつきあいに臆病なのと、もうひとつ告白できないのだろうと思うことがあります、それは相手が自分と同じ女の子、同性だということですね。

 

女の子同士が付き合うことは、物語のなかだと最近は当たり前のように行われています。ですが現実に起こったら?と考えたとき、同性を好きなのはおかしいことなんじゃないか、という疑問はあると思うんですよね。牧村朝子さんの『百合のリアル』もそこに葛藤して、男性として女性を好きになりたいということなのか、この感情は一過性のものでいつかは異性が好きになるのではないか。というように、女性の自分が同性を好きになることは簡単には受け入れられないことなんじゃないかと思うんですね。

 

らっこもこの葛藤を抱えていたのだと思います。だから告白ができなかったかし、かわうそに彼氏ができたと聞いたとき、かわうそに『恋人』ができたこともそうだけど、普通に異性が好きなんだなということがわかってそのことに落ち込み、また素直に祝福できない自分を責めてしまう。

 

自分が好きでちょくちょくみてるんですが、マブラヴ作者の吉宗綱紀さんがやられてる動画なんですけど、このなかでゲストにこられてたtororoさんと吉宗さんが言われている

 

「(自分のことを責めすぎると)自信をどんどん失っていっちゃって、いきすぎると行動しなくなったり、なにも考えなくなっちゃったりするんでよね」

 

と言っていて、らっこがかわうそに対して距離をとってしまったのも、自分が他の人とは違うと思って自分のことを責めていたからではないかな? 自分のことを責め続けた結果自信がなくなって、言葉にすることも臆病になっていったのではないかなと思います。

 

でも、好きという気持ちを抱いていたのが、らっこがかわうそのことを好きだったように、かわうそもらっこのことが好きだったんだとわかったとき、らっこはようやく前に進めます。臆病だから、相手の気持ちがわかってからじゃないと進めなかった。らっこのモノローグにある

 

君のこと何でも知りたいから、私のことも何でも知ってほしい

 

これができてないとらっこは前に進めなかったんですね。

 

そして、ようやく恋人同士になれた二人は体を重ねて、知ります。

 

体を重ねても、相手のすべてを知ることはできないし、自分のすべてを伝えることはできないことを。

 

だけど

 

それでも、相手のことを好きな気持ちに変わりはないということを学んだんですね。

だから、らっこは晴れやかな顔で

 

「私は...かわうそが今日もかわいいから ずっと恋ができるよ」

 

と言えるんですね。自分をすべて知ってもらわなくても、好きでいてくれることを知り。相手のことをすべてわからなくても、今日のきみを好きな気持ちは変わらないんだと知ったから。

 


はぁ、とても素晴らしかった。最近、ヨルシカに触れてみたり、BUMPなんかをまた聴きだしたのですが、ヨルシカの『だから僕は音楽をやめた』や『エルマ』は自責の歌だし、BUMPのオービタルピリオドまでの楽曲も自責の歌だったんじゃないかな?といま考えながら聴いているんですけど、このあたりの歌を知っていると春井さんの物語がさらにぐさぐさと心にささって、やっぱりいろいろとインプットしないとなーと思う今日この頃です。

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